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『週刊朝日』昭和13年(1938年)6月26日号「古武道の真髄を語る」

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02 — Transcription

原文転写

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『週刊朝日』昭和13年6月26日「古武道の真髄を語る」全文連結版

史料情報

  • 資料:『週刊朝日』
  • 發行日:昭和13年(1938年)6月26日
  • 記事:「古武道の真髄を語る」
  • 原画像:01--05

凡例

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全文連結版

和田氏 新陰流(りう)と申しますと、殆ど陰といふ字で、すつかり何もかも縮つてしまつて意味を無してゐるといつてもよろしい。新陰流(りう)で一番大事なのは陰といふ字が一番の眼目であります。色々の書物を見まするのに[随分]御承知の通りに祕密で傳習といふものを一切外に見せません、為に人が色々と臆測なんかを書いてをりますが、新陰流(りう)といふ以上は必ず陰流(りう)といふものがあつたに相違ない。誰が元祖かと申しますと或は上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)或は柳生宗嚴(やぎゅうむねとし)或は丸目藏人(まるめくらんど)或は疋田文五郎(ひきたぶんごろう)などといつてゐますが、私としてはこれは大變な誤りだと思ひます。私は愛洲移香(あいすいこう)、藤原惟孝先生が一番初めから新陰流(りう)を相續がれてをると思ひます。これは餘程調べても調べやうがありませんが、傳書の眞つ先に舊いしてあることだから荒唐無稽かも知れませんが、お話致します。伏義王が龜の甲をとつて燒いた處が文字が現はれた。つまり古く劍法が現はれた、これを陰の劍法と名付けたと書いてあります。その陰の劍法が[霊亀]年間に日向の宇土藏現に傳はつて[ゐるといふことで、]、この[霊亀]]年間といふ時代は遣唐使が盛に出入りした時代で、それから考へて見ますると、或は遣唐使が鹿兒島あたりにもつて来て、鵜戸權現に傳へたんぢゃないかと思ひます。そこで愛洲移香(あいすいこう)といふ人はどういふ人であつたかといふとこれは[天文]年間の人であると書いてありますが、天文年間の傳書をいろ々調べて見るとどうしても歷史上合はない、私は恐らく[天文]年間から百年ばかり遡つて應仁時代でなければ合はぬと思つてをりました處が、[幸ひ]にもその史實を見出しました。愛洲移香といふ人は伊勢の度會の人で南朝の非常な[功臣]であつたさうです、南朝が亡びまして伊勢の度會に一族がをりまして、建武中興六百年祭があつた際に表彰式をやつてゐるさうです、その子孫の愛洲[小七]郎といふのが今の[千葉縣]である常陸の佐竹義重に仕へ、常陸國[西那賀郡]平澤村にをつて、それから平澤といふ姓になつてゐるさうです、平澤家の系圖に遺つてをつてそのこと[からさういう風に風に判った]ので、嘘が本當か[知]りませんが私はさうだらうと思ひます。

どうして愛洲移香が日向の宮崎に行つたかといふとは分りませんが、傳書によりますと鵜戸權現の神官であつて非常に多年劍道の修業をしましたけれどもその妙を得ず權現の神前に三七日の間籠つて夢想[一巻]を賜はり夢に愛洲移香がこれを授いて悟を得たといふので、これは私の想像ですが、陰の劍法といふ[寶巻]がその時分に宇土藏現にあつたんぢゃないか、さうしてそれを見るけれども分らぬものだから所謂夢になつた、後に陰の劍法がふつと[判]つたんぢゃないかと思ふ。その陰の劍法に愛洲移香がこれを多少改めました、これが新陰流と思はれる。私は愛洲移香が新陰流を[初めから作]つたといふことは信じてをりますが、熊本に傳はつてゐる新陰流は疋田文五郎から傳はつてゐると總てに書いてあります。柳生宗嚴が新陰流と名付けたといふのは私は信ぜられんと思ひます、肥後における新陰流と柳生流は型の上からいつても餘りに違つてをります。それで柳生宗嚴は誰から習つたかといふと上泉武藏守(のかみ)から習つた、上泉は愛洲移香から習つてをりますが、上泉武藏守が非常に[評判]になつて天下の劍豪が悉く上泉武藏守の弟子になり、その弟子は皆一流の達人ばかりで、自分持前の流を新陰流と申したものですから後には色々と名前が變りました。それは自分が既に會得してをつた處を新陰流が[評判]がいい[ので]弟子入りをして熱中してゐる、そのうちで上泉の弟子で新陰流として殘つたのは疋田文五郎だけです。それで柳生宗嚴の如きは疋田から習ひ又上泉武藏守からも習ひました、その先生が新陰流といふ以上は決して私は柳生宗嚴が初めて新陰流と名付けたといふのは信ぜられぬと思つてをります。愛洲移香は長祿年間に生れて天文七年に八十七歲で死んでゐる。その子[維修]に至つて、初めて京都に行つて、足利義輝に仕へた。その時分に上泉武藏守が[雷]名を馳せてをつて天下の劍豪が悉く集つた、それから上泉武藏守が柳生宗嚴なんかを教へたさうして疋田文五郎は一人殘つてをつたが、あすこから出て中國を下つて來て丹後の細川三齋侯が城主であつた時に百五十石で抱へられました。さうして二三年仕へて[ゐ]たがそれから[禄]を[辞]して武者修業に出かけて頭を剃つて入道となつて新潟の方に出ました。その間十年、細川侯は豐前の小倉に城主となつてゐる、そこへ行つた處が三齋侯が非常にお喜びになつて早速呼び出して武者修業の話をせよといつて、その時分のことが廻國日記となつて私の處に遺つてをりますが、二十三か二十七か仕合をした。その又仕合が面白い、眞劍仕合といふのは一つもありません、[悉く竹刀]であります。[こ]れは上泉武藏守が發明したもので上泉武藏守は武者修業といふものは我々の修業である、[怨]も何もあるものではない、修業の身を以て眞劍仕合で勝つか負けるかなんでそんな馬鹿なことはない、自分が劣つてをつたら向ふに學び、向ふが弱かつたら自分に教へてくれといへば教へてやるといふのでありますから、京都でも非常に感心してそこで三十日も[を]つてわざ々疋田文五郎が教へた[、]さういふこともずつと載つてをります。[併し非常に]疋田文五郎といふ人は[謙遜]な人で、決して人に見せるといふやうなもんではない。又細川三齋侯に仕へてをつたんですが、妻帶も何もしなかつた。それで上野相馬之介に譲つたが、上野家の四代目には五代目の嗣子がない、今から考へると肺病らしいですが、後繼がないものですから寬永年間に熊本で私の先祖の[傳兵衛]といふ人が門人であるといふのでそれを譲受けました。さうして今日まで私共の家に傳はつてゐる。熊本には新陰流は澤山ある、上野家はすつかり何も彼も絶えてしまつてゐるが[昔]はさういふ家柄でありますのでいろ々後から出た人がそこから許を得たのです。それで熊本新陰流はありますが、皆疋田文五郎から譲り受けたものでこゝで申上げるのは[種々の書物]が[當]にならぬといふ證據にもなりますが、疋田文五郎の墓を熊本で見付けて喜んで歸つてからいろ々と書いたものを調べて見るとどうしても合[わぬ処]がある、書違ひかと思つて又走つて

行つて見たが間違ひない、それでどうもをかしいのは引田と書いてある。それはどうかといふと[陰墓]があつた、上野家が絶えた時に記念の為に小さな二尺位の墓が建てゝある、二代目か三代目であらうその墓を建てたが[既にかふいう間違ひをしてゐる][疋田が本當當であるのに]碑には疋田と書いてある。文五郎は文の字が多いが中には[豐]五郎と書い[たのも]あります。故直木三十五氏も[豐]五郎と書いてをられたが[しっかりした]引證もないらしい。どうもこれは豐前の小倉で細川侯に仕へてゐたから[豐]といふ字を間違へたんだらうといふことですが或はさうかも知れぬと思ひます。新陰流では陰の字が大切である、陰は何かといふと[「勝に進む虚の一心」]をさしていふ、それで劍の[組]立は陰陽になつてゐる。陽は技、陰は心、總て陰陽が備はなければいかぬ、別々に分れてはいかぬ、「陰陽[二]ツ心一ツなれば何とて敵を打もらすべき」とある。陰陽が一致合體しなければいかぬ、離れ々になつてはいかぬ、構へ[でも]陰はかう構へる、こつちに構へたのが陽、陰の劍と陽の劍といふのがある、陰陽の[違う]のは裏表といつたやうなもので、この太刀が陽[(実演)]形は[五]本のものを一本に詰たもので、どの時代か一本に詰めたか知らんが技が[醜]くなる。五本に割つた[ら纏ま]りません、それで一本に纏めたものらしい。稽古は大小技が出來たら陰に行く、[三學]といつて御覽の通り[でれつ]と構へますから人が[笑ひ]ますけれども非常に手數を簡單にしてゐる、陰の方をやるやうになりますと[あのでれつとした構がなか々六ケ敷い]、力を抜いてしまふ、そこで隙が出來ますといふと一人前の小學校卒業です。それから何に行くかといふと位詰が、まあ人格です、その位詰めが出來ますと中等學校卒業です。その次は目付、これは極意の初歩といひます「か」、その目付には八つありますが一番の眼目は大事なのは[遠]山の目付、執着心もなく敵も何も恐れぬ、すつかり備はつてをりますから鏡のやうに敵動もしない。それから今度中目になつて目錄、目錄から皆傳になる。それで本當の新陰流の極意は何かといふと[一]刀兩斷とか何とかいふことは何もございませぬ。かういふことになつてゐます、敵に對して一切死[を]思[は]ず生を思はず斬人の念もすつかり消てゝ一切無になつてしまはなければならぬ[テキ]と會つた時は只[修練]した手足が動くのみ、そこまで行かなければならぬといふ、これは非常な[心]眼になつてしまつてゐます。新陰流の[歌]に[いづくにも心とまらば住替へよ ながらへば又元のふるさと] [よく]いふことです、まさにこれが本當の極意になつてをります。それから新陰流の本當の大事な[得意な剣は青眼の構へ]で、日月[の先がさすやうに総て真向に何でも真直に]に身體も劍も一寸でも曲ると[無]になることが出來ぬ。それで自然體、自體の心に從つてしまふといふやうなことになつてをりまして、それで[青眼の構へ]から振上げて一刀兩斷にすることは何でもありませぬ。[私の家の後をとるものは真言宗の力があって]三七日の間[護摩焚か]なければならぬといふやうなこともあります。私の親は[略して]、[一]週間[やったと]いふ[ことです。]

03 — Modern Japanese

現代語訳

史料中の主張を現代の歴史研究によって訂正せず、提供された訳文をそのまま掲載しています。

『週刊朝日』昭和13年6月26日「古武道の真髄を語る」現代語訳

史料情報

  • 資料:『週刊朝日』
  • 発行日:昭和13年(1938年)6月26日
  • 記事:「古武道の真髄を語る」
  • 話者:和田氏
  • 底本:手動修正版「全文連結版」

現代語訳について

この現代語訳は、手動修正版の原文転写を底本とし、1938年当時の和田氏の発言内容を現代の日本語で読みやすくすることを目的としたものです。原文で手動修正・加筆を示していた角括弧 [ ] は訳文では外しています。

歴史上の事実関係、系譜、年代、固有名詞、伝承内容について、現代の研究成果による訂正や補足は行っていません。原文に不自然さや矛盾がある箇所も、可能な限り発言の趣旨を保って訳しています。

現代語訳

和田氏 新陰流というと、ほとんど「陰」という一字に、すっかり何もかもが凝縮されて意味を成していると言ってもよいでしょう。新陰流で最も大切なのは、この「陰」という字です。

いろいろな書物を見ますと、よくご承知のとおり、伝習の内容は秘密にされて一切外部に見せません。そのため、人がいろいろと臆測を書いています。しかし「新陰流」という以上、その前に必ず「陰流」というものがあったに違いありません。

誰が元祖かというと、上泉伊勢守、柳生宗厳、丸目蔵人、疋田文五郎など、いろいろと言われていますが、私はこれは大きな誤りだと思っています。私は、愛洲移香、藤原惟孝先生から、最初から新陰流が相続されているのだと思っています。

これは、いくら調べても調べようのないことではありますが、伝書の一番初めに古くから記されていることですので、荒唐無稽かもしれませんがお話しします。

伏義王が亀の甲を取って焼いたところ、文字が現れた。つまり、古く剣法が現れ、これを「陰の剣法」と名付けた、と書いてあります。その陰の剣法が霊亀年間に日向の鵜戸権現へ伝わったということです。

霊亀年間という時代は遣唐使が盛んに行き来していた時代ですから、そこから考えると、あるいは遣唐使が鹿児島あたりへ持ってきて、鵜戸権現へ伝えたのではないかと思います。

さて、愛洲移香とはどういう人物だったかというと、伝書には天文年間の人であると書いてあります。しかし天文年間の伝書をいろいろ調べてみると、どうしても歴史上の年代が合いません。私は、おそらく天文年間から百年ほど遡った応仁時代でなければ合わないと思っていましたが、幸いにも、その史実を見つけました。

愛洲移香は伊勢の度会の人で、南朝の非常な功臣だったそうです。南朝が滅びた後も伊勢の度会に一族がおり、建武中興六百年祭の際には表彰式が行われたそうです。その子孫の愛洲小七郎という者が、今の千葉県である常陸の佐竹義重に仕え、常陸国西那賀郡平沢村に住み、そこから平沢という姓になったそうです。平沢家の系図に残っていて、そこからそういうことが分かったというのです。本当かどうかは知りませんが、私はそうなのだろうと思っています。

愛洲移香がなぜ日向の宮崎へ行ったのかは分かりません。しかし伝書によれば、鵜戸権現の神官で、長年剣道の修行を重ねたものの、その妙を得ることができず、権現の神前に三七日(二十一日)の間こもり、「夢想一巻」を授かり、夢の中で愛洲移香がこれを授かって悟りを得たということです。

これは私の想像ですが、「陰の剣法」という宝巻がその頃に鵜戸権現にあったのではないでしょうか。それを見ても理解できないため、いわゆる「夢」という形になり、後になって陰の剣法がふっと分かったのではないかと思います。

その陰の剣法を愛洲移香が多少改めたものが、新陰流だと思われます。私は、愛洲移香が新陰流を初めから作ったということを信じています。一方、熊本に伝わっている新陰流については、疋田文五郎から伝わったと、すべてに書かれています。

柳生宗厳が「新陰流」と名付けたという説は、私は信じられないと思っています。肥後における新陰流と柳生流とは、型の上から見てもあまりにも違っています。

では柳生宗厳は誰から習ったかというと、上泉武蔵守から習っています。そして上泉は愛洲移香から習っています。上泉武蔵守は非常な評判となり、天下の剣豪がことごとくその弟子になりました。その弟子たちは皆、それぞれ一流の達人でしたから、自分がもともと持っていた流儀を新陰流と称し、後にはいろいろと名前が変わっていきました。

つまり、すでに自分が会得していたものがありながら、新陰流の評判がよいので弟子入りして熱中したわけです。その中で、上泉の弟子として「新陰流」の名をそのまま残したのは疋田文五郎だけです。

柳生宗厳などは疋田からも習い、また上泉武蔵守からも習いました。その先生自身が新陰流と称している以上、柳生宗厳が初めて新陰流と名付けたという説は、私は決して信じられないと思っています。

愛洲移香は長禄年間に生まれ、天文七年に八十七歳で亡くなっています。その子の維修の代になって初めて京都へ行き、足利義輝に仕えました。

その頃、上泉武蔵守が雷名を馳せ、天下の剣豪がことごとく集まりました。上泉武蔵守は柳生宗厳などを教えました。そして疋田文五郎は一人残っていましたが、そこを出て中国地方を下り、丹後で細川三斎侯が城主だった時に百五十石で召し抱えられました。

二、三年仕えていましたが、その後、禄を辞して武者修行に出かけ、頭を剃って入道となり、新潟の方へ出ました。その間に十年が経ち、細川侯は豊前小倉の城主となっていました。

そこへ疋田が行ったところ、三斎侯は非常に喜び、さっそく呼び出して「武者修行の話をせよ」と言いました。その頃のことが『廻国日記』となって私のところに残っていますが、二十三回か二十七回か、仕合をしています。

その仕合がまた面白い。真剣仕合は一つもなく、ことごとく竹刀で行っています。

これは上泉武蔵守が考案したもので、上泉は「武者修行というものは我々自身の修行である。怨みも何もあるものではない。修行の身でありながら、真剣仕合で勝つか負けるかなどというのは、そんな馬鹿なことはない。自分が劣っていれば相手から学び、相手が弱く、自分に教えてほしいと言うなら教えてやればよい」という考えでした。

京都でも非常に感心され、そこで三十日も滞在して、わざわざ疋田文五郎が教えたということなども、ずっと載っています。

しかし疋田文五郎という人は非常に謙遜な人で、決して人に見せびらかすような人ではありませんでした。また細川三斎侯に仕えていましたが、妻帯もしませんでした。

そこで上野相馬之介に伝えましたが、上野家の四代目には五代目となる嗣子がありませんでした。今から考えると肺病だったらしいのですが、後継者がいなかったため、寛永年間、熊本で私の先祖の伝兵衛という者が門人だったことから、それを譲り受けました。そうして今日まで私どもの家に伝わっています。

熊本には新陰流がたくさんあります。上野家はすっかり絶えてしまっていますが、昔はそういう家柄でしたので、後から出た人々もそこから許しを得ています。したがって熊本の新陰流はありますが、皆、疋田文五郎から譲り受けたものです。

ここで申し上げたいのは、さまざまな書物が必ずしも当てにならないということです。

疋田文五郎の墓を熊本で見つけ、喜んで帰ってからいろいろな書物を調べてみると、どうしても合わないところがある。書き違いかと思って、また走って行って見ましたが、間違いありませんでした。どうもおかしいのは、「引田」と書いてあることです。

それがどういうことかというと、陰墓がありました。上野家が絶えた時、記念のために二尺ほどの小さな墓が建ててあります。二代目か三代目が建てたのでしょうが、すでにこういう間違いをしている。疋田が本当であるのに、碑には疋田と書いてある――原文はこのように述べています。

また、文五郎は「文」の字を使う表記が多いのですが、中には「豊五郎」と書いたものもあります。故・直木三十五氏も「豊五郎」と書いていましたが、しっかりした引証もないらしい。これは豊前小倉で細川侯に仕えていたため、「豊」という字を取り違えたのではないかということですが、あるいはそうかもしれないと思います。

新陰流では「陰」の字が大切です。陰とは何かというと、「勝に進む虚の一心」を指して言います。そして剣の組み立ては陰陽から成っています。

陽は技、陰は心です。すべて陰陽が備わらなければならず、別々に分かれていてはいけません。

「陰陽二つ、心一つなれば、何とて敵を打ちもらすべき」

とあります。陰陽が一致合体しなければならず、離れ離れになってはいけません。

構えにも陰と陽があります。こちらに構えたものが陰、こちらに構えたものが陽というように、陰の剣と陽の剣があります。陰陽の違いは、裏表といったようなものです。

この太刀が陽です。(実演)

形は五本のものを一本にまとめたもので、どの時代に一本にまとめたのかは知りませんが、技が醜くなる。五本に分けたらまとまりませんので、それで一本にまとめたものらしい。

稽古では、大小の技ができるようになると「陰」へ進みます。「三学」といって、ご覧のとおり、だらりとしたような構えをするので人が笑いますが、非常に手数を簡単にしています。

陰の方をやるようになると、あのだらりとした構えがなかなか難しい。力を抜いてしまう。そこで隙ができるようになると、一人前、小学校卒業というところです。

それから何へ進むかというと「位詰」です。まあ、人格にあたるものです。その位詰ができると、中等学校卒業です。

その次が「目付」です。これは極意の初歩と言います。その目付には八つありますが、その中で最も大切なのが「遠山の目付」です。執着心もなく、敵を恐れることもなく、すべてが備わっているので、鏡のように、敵が動いても動じません。

それから「中目」になり、「目録」へ進み、目録から「皆伝」になります。

では、本当の新陰流の極意とは何かというと、「一刀両断」などということではありません。

こういうことになっています。

敵に対して、死を思わず、生を思わず、人を斬るという念もすっかり消え、一切が無にならなければならない。敵と出会った時には、ただ修練した手足が動くのみ。そこまで行かなければならないというのです。これは非常な「心眼」の境地です。

新陰流の歌に、

いづくにも心とまらば住替へよ
ながらへば又元のふるさと

というものがあります。よく言われることですが、まさにこれが本当の極意になっています。

それから、新陰流で本当に大切な、得意とする剣は「青眼の構え」です。日月の光が差すように、すべて真向きに、何でも真っ直ぐにする。身体も剣も少しでも曲がると、「無」になることができません。

そこで自然体となり、自体の心に従ってしまう、ということになっています。青眼の構えから振り上げ、一刀両断にすること自体は何でもありません。

私の家の跡を継ぐ者は、真言宗の力があって、三七日(二十一日)の間、護摩を焚かなければならない、というようなこともあります。私の親はそれを略して、一週間やったということです。

訳注

  • 「陰墓」は底本の手動修正版の表記をそのまま採用した。意味・字形の確定はこの現代語訳では行っていない。
  • 墓碑をめぐる「引田」「疋田」の説明には、底本上そのままでは論理が通りにくい箇所があるため、現代の知識から補正せず原文の内容を残した。
  • 「常陸」と「千葉県」の併記など、歴史・地理上検討を要する記述についても、和田氏の発言としてそのまま訳し、事実関係の校訂は行っていない。

Editorial note

史料・翻訳・編集注について

歴史的史料
原画像と原文転写は、1938年の掲載記事を確認するための史料部分です。
現代語訳
現代語訳は読解補助であり、原文そのものではありません。
編集注
角括弧と訳注は、原文と区別された編集上の表示です。

原画像の出典・権利情報は、提供された資料内では確認できません。転載・再利用にあたっては権利状況を別途確認してください。