歴史研究コラム

疋田豊五郎は何者だったのか

『言継卿記』に見る室町幕府の疋田氏

疋田豊五郎は上泉信綱の高弟として知られます。しかし、同時代の京都と足利将軍家の周辺には、豊五郎とは別に複数の「疋田」が現れます。彼らは豊五郎の一族だったのでしょうか。本稿は結論を先取りせず、確認できる人名・場面と、なお結べない系譜を分けて考えます。

同時代史料

『言継卿記』に現れる疋田氏

山科言継の日記『言継卿記』には、永禄6年(1563)から永禄13年(1570)にかけて、疋田修理進、弥四郎、弥七郎、弥九郎が現れます。ここでは国書刊行会刊行本の画像で日付・版面・周辺文脈を目視確認できた四条だけを年代順に示します。

『言継卿記』刊行本で版面確認した疋田姓の記事
年・時期日記の文言読み取れること・留保
永禄6年正月2日刊行本310–311頁・画像163コマ今日禮者……松井山城守、疋田修理進、同彌四郎、同尉松、同孫六、春あみ……今日の礼者……松井山城守、疋田修理進、同弥四郎、同尉松、同孫六、春阿弥……年始の礼に訪れた人々の列。『同』以下は疋田姓の反復と読めるが、『尉松』は刊行本の文字を保ち、名の読みを確定しない。
永禄8年5月19日刊行本502–503頁・画像259コマ奉公衆數多討死云々……御末……疋田彌四郎、二宮彌三郎……奉公衆、数多討死云々……御末……疋田弥四郎、二宮弥三郎……足利義輝が襲撃された日の討死人数を記す箇所。版面では『御末』の小見出しに続く列に疋田弥四郎が置かれる。省略を含む引用であり、連続本文ではない。
永禄13年正月4日刊行本374–375頁・画像195コマ今日之禮者……春阿、疋田彌七郎、出納大藏大輔……今日の礼者……春阿、疋田弥七郎、出納大蔵大輔……年始の礼者一覧に疋田弥七郎が現れる。近くに『奉行』『御末』の小見出しがあるが、その係り方を一語の肩書として固定しない。
永禄13年正月26日刊行本380–381頁・画像198コマ未下刻より奉公衆方、年頭之禮に罷向、路次次第……眞下式部少輔、疋田彌九郎、父入道出合、松林院等也未の下刻より奉公衆方へ年頭の礼に罷り向かう。路次の次第……真下式部少輔、疋田弥九郎、父入道出合、松林院等なり。言継が奉公衆方へ年頭礼に向かった道順・出会いの記録。疋田弥九郎の名と、続く『父入道出合』を確認できるが、父の実名は記されない。

引用は旧字体を含む刊行本の表記を保ち、「……」は離れた箇所の省略を示します。読み下し欄は検索・理解を助ける編集上の読みであり、別の原本校訂ではありません。

天文21年(1552)の疋田弥四郎に関する既知の手掛かりも調査しましたが、今回参照できた版面で正確な日付と本文の対応を独立確定できませんでした。したがって本稿の確定引用には含めません。

役職と文脈

足利将軍家に仕えた疋田氏

永禄8年5月19日条は、足利義輝が襲撃された日の奉公衆の討死を記し、その版面の「御末」見出しに続く列に疋田弥四郎を載せます。少なくともこの弥四郎を、将軍家周辺の奉公衆と討死者を分類した記録の中に位置づけることができます。一般に御末は将軍近侍の一群を指す語として説明されますが、本稿では刊行本の小見出し以上に厳密な職掌を割り当てません。

永禄8年5月19日・刊行本502–503頁・画像259コマ · 言継卿記 第三

奉公衆數多討死云々……御末……疋田彌四郎、二宮彌三郎……

読み奉公衆、数多討死云々……御末……疋田弥四郎、二宮弥三郎……

足利義輝が襲撃された日の討死人数を記す箇所。版面では『御末』の小見出しに続く列に疋田弥四郎が置かれる。省略を含む引用であり、連続本文ではない。

永禄13年正月4日・刊行本374–375頁・画像195コマ · 言継卿記 第四

今日之禮者……春阿、疋田彌七郎、出納大藏大輔……

読み今日の礼者……春阿、疋田弥七郎、出納大蔵大輔……

年始の礼者一覧に疋田弥七郎が現れる。近くに『奉行』『御末』の小見出しがあるが、その係り方を一語の肩書として固定しない。

永禄13年正月26日・刊行本380–381頁・画像198コマ · 言継卿記 第四

未下刻より奉公衆方、年頭之禮に罷向、路次次第……眞下式部少輔、疋田彌九郎、父入道出合、松林院等也

読み未の下刻より奉公衆方へ年頭の礼に罷り向かう。路次の次第……真下式部少輔、疋田弥九郎、父入道出合、松林院等なり。

言継が奉公衆方へ年頭礼に向かった道順・出会いの記録。疋田弥九郎の名と、続く『父入道出合』を確認できるが、父の実名は記されない。

永禄13年正月4日条の弥七郎にも「御末」の小見出しが近接します。ただし版面上の係り方には検討の余地があり、「疋田弥七郎の正式肩書は御末である」と一本化しません。同月26日の弥九郎は、言継が「奉公衆方」へ年頭礼に向かう記事に現れます。

『永禄六年諸役人附』にも疋田姓・近い通称を求める研究上の手掛かりがあります。しかし、今回その一次本文と成立事情まで確認できなかったため、『言継卿記』の弥四郎・弥七郎との同一人物比定には使いません。同名・近い時期・同じ幕府周辺という条件は候補を示しますが、同一人物の証明ではありません。

豊五郎自身の語り

『廻国記』の疋田豊五郎

幕府周辺の疋田氏から、豊五郎自身の記録へ移ります。プロジェクトで参照した『廻国記』作業転写は、語り手を「疋田豊五郎入道栖雲斎」と名乗らせ、上泉武蔵守の弟子であると述べます。上泉名の直後に続く文字にはなお判読上の問題があるため、疑わしい一字を補って長い引用にはしません。確認できるのは、本文が師弟関係を自己記述していることです。教授の年月日・場所・相伝範囲までは分かりません。

同じ作業転写は「細川兵部太夫家中」と記し、後段で「忠興公」に言及します。「家中」は本文の関係語として保ち、近代的な職名や厳密な家臣身分へ置き換えません。

旅程には伊勢、山城・京都などが現れ、廻国後は慶長6年(1601)2月15日に船で豊前へ帰着したと記されます。末尾は、帰着後に廻国中の出来事を問われ、その内容を書き記したという体裁をとります。ただし、伊勢を訪れたことは伊勢疋田氏出身の証明ではなく、末尾の体裁だけから細川忠興の直接命令で成立した文書とも断定できません。

一致しない数字

二百石の本文と、研究書の三百五十石

『廻国記』作業転写の帰着後の記事には、「本知二百石」「宇佐郡」「忠興公より二百石」という趣旨の語句が見えます。しかし文の係り方と制度上の意味は確定していません。二つの二百石を足して四百石としたり、知行・加増・扶持のどれかに決めたりはできません。

一方、『新陰流(疋田伝)の研究』10頁は、豊五郎が細川忠興に「三五〇石で出仕していた」と叙述します。確認した頁には『廻国記』本文の該当引用や、この数字に対応する個別注がありません。二百石を含む作業転写と三百五十石の研究叙述は、現段階では一致しません。数字を統合せず、異なる史料層の未解決の齟齬として残します。

現代研究と家伝

「上泉信綱の甥」という伝承

疋田小三次(小三治)の直系であると伝える疋田家には、豊五郎を上泉信綱の姉の子とする家伝が伝わります。本稿はこの証言を重要な家伝として記録しますが、同時代史料による血縁証明とはしません。現在の子孫を特定できる氏名・所在地・連絡先・家族事情は掲載しません。

『新陰流(疋田伝)の研究』1頁も、豊五郎を天文4年(1535)頃の加賀生、父を疋田主膳景憲、母を上泉信綱の姉、字を景兼と叙述します。今回確認した該当頁には、これら各項目の直接の一次史料や個別の出典注を確認できませんでした。そのため本稿では、いずれも現代研究が提示する伝記像として扱います。

『廻国記』作業転写が直接述べるのは、豊五郎が上泉武蔵守の弟子だという関係です。現在確認した範囲では、甥、姉の子、疋田主膳景憲、加賀生、天文4年頃、景兼という情報を同時代本文から立証できません。家伝と研究書の内容が重なることは注目できますが、相互に独立した同時代証拠が二つあることにはなりません。

分析

幕府の疋田氏と豊五郎は同族なのか

可能性を考える材料はあります。豊五郎と重なる時代に京都・幕府周辺で複数の疋田姓が活動し、一部は御末の見出しを伴う将軍近侍層の記録に現れます。豊五郎自身も上泉武蔵守との師弟関係と細川家中との関係を語り、京都を含む広い人的・地理的圏を移動しています。

しかし、両者を直接つなぐ系図、親子・兄弟関係を記す文書、相互の言及は確認できません。姓の一致だけでは足りず、弥四郎・弥七郎・弥九郎・修理進を豊五郎の親族とすることはできません。幕府疋田氏を伊勢国多気郡の一族とする説も、今回の調査では根拠となる歴史資料まで遡れませんでした。豊五郎の伊勢訪問を出自証明に転用することもできません。

表記検索では「疋田」のほか「匹田」「引田」「挽田」「侏田」も調べました。取得できた第三・第四のOCRでは今回の該当は「疋田」だけでしたが、OCRは異体字・汚れ・縦書きを取りこぼします。無ヒットを不存在の証拠とせず、別表記を同じ家へ自動統合もしません。

結論

分かることと、まだ結べないこと

現時点では、足利将軍家に仕えた疋田氏と疋田豊五郎を直接結ぶ史料は確認できません。一方、豊五郎と重なる時代の京都・幕府周辺に複数の疋田氏が実在し、その一部が将軍近侍層を示す「御末」の分類に現れることは、確認できる重要な背景です。

豊五郎について一次史料層から言えるのは、『廻国記』作業転写が彼を上泉武蔵守の弟子、細川兵部太夫家中の人物として語ることです。血縁、出生地、父母、出生年、景兼の名、幕府疋田氏との親族関係は、今後の史料確認を要します。結論を「同族」に急がず、同時代の疋田氏という探索対象を具体化できた段階と位置づけます。

次回への接続

系譜と伝承線を、史料層ごとに読む

次の研究コラムでは、愛洲移香から愛洲小七郎、上泉武蔵守、疋田豊五郎、上野左右馬助へ続く伝承線と、各系譜資料の成立・来歴を検討します。本稿で未解決とした血縁や同族関係を、系譜の並びだけで先に確定することはしません。

引用の確認範囲

典拠と調査状況

『言継卿記』は国書刊行会刊行本の国立国会図書館デジタルコレクション画像を版面確認しました。第三・第四の公開OCRも表記探索に用いましたが、OCR検索は本文校合の代用ではありません。『廻国記』はプロジェクト研究用の作業転写で、原本の所在・来歴・年代・自筆性・写本系統、転写元・編集履歴・文字精度は未確認です。現代研究は一次史料と分け、家伝は匿名化した口承・伝承として扱います。

天文21年の弥四郎記事、『永禄六年諸役人附』の一次本文、幕府疋田氏の伊勢・多気郡由来説の根拠、『廻国記』原本・諸本と石高文の構文、豊五郎の父母・出生地・出生年・景兼・別名の出典を継続調査します。

典拠・参考文献

  1. 言継卿記 第三 — 山科言継
  2. 言継卿記 第四 — 山科言継
  3. 廻国記
  4. 新陰流(疋田伝)の研究 — 赤羽根龍夫・赤羽根大介
  5. 疋田小三次(小三治)の直系と伝える疋田家の家伝