歴史・第三章
第三章|疋田豊五郎 — 史料の空白から現れる継承者
「上泉信綱の弟子」という後世の人物像から始めず、疋田自身に関係する文書を年代順に追う。その史料の道筋は、やがて上泉武蔵守・藤原信綱朝臣へ至る。
第二章は『言継卿記』を中心に、上泉武藏守信綱の京都での活動と、千秋刑部少輔、鈴木、山科言継らとの接点を同時代史料から組み立てた。しかし、同章で調べた『言継卿記』の範囲を疋田・匹田・曳田・引田・豊五郎・文五郎で検索しても、疋田豊五郎と同定できる人物は見つからなかった。
これは史料上の空白である。では、疋田豊五郎はどこから史料上に姿を現すのか。本章は、後世の伝記を入口にせず、疋田に直接関係する文書を年代順に追う。
第二章から
疋田豊五郎はどこにいるのか
京都の史料群には上泉の名と周囲の人物が現れる一方、今回の検索範囲では疋田を確定できない。では、疋田豊五郎は、どの史料から姿を現すのだろうか。
1566・新當流
「侏田豊五郎」と新當流
一般に『新當流兵法起請文』または『新当流兵法伝授起請文』と呼ばれる文書の公開複製・翻刻には、「上野之住」「侏田豊五郎」「永祿九年二月晦日」「雲林院弥四郎入道殿」が見えるとされる。これは『三重県史 資料編 中世3(下)』pp.469–470所収の二月晦日付起請文に対応する。
同書は、これとは別に三月十日付の起請文も収録する。三重県の歴史記事が示す1566年3月10日は後者の日付であり、一通の日付不一致ではない。『三重県史』が「個人所蔵・調査」とする岩尾文書と、熊本県立図書館所蔵の岩尾家文書(雲林院家文書)19通は、同一の所蔵群とは確認されていない。二通の現在の所蔵者・所在・来歴も未確認である。
- 一次史料
- 『三重県史 資料編 中世3(下)』pp.469–470/三重県の歴史記事/熊本県立図書館からの直接回答
- 史料記載
- 二月晦日付:上野之住・侏田豊五郎・雲林院弥四郎入道殿/三月十日付:侏田豊五郎・雲林院弥四郎入道殿。
- 現代語訳
- 侏田豊五郎景兼が、雲林院弥四郎入道へ宛てた新當流関係の二通の起請文として伝わる。
- 読解
- 後に新陰流と結びつく人物が、この段階では新當流の伝授文脈に現れる。なぜそうなるのかは開いた問いである。
- 留保
- 二通の現在の所蔵者・所在・来歴は未確認。「上野之住」から上泉との同居・同行を導かず、1566年の師弟関係を証明したともいわない。
1566・伊勢
永禄九年、伊勢国での活動を示す二通の起請文
永禄九年(一五六六)、疋田豊五郎景兼が伊勢国(現在の三重県)の雲林院弥四郎入道に宛てた二通の起請文が残されている。『三重県史 資料編 中世3(下)』所収「岩尾文書」には、同年二月晦日付と三月十日付の「侏田景兼起請文」が収録されている。
二月晦日付の起請文は「新当流兵法諸具足起請文」と題され、景兼は、命に背かないこと、他流と交わらないこと、師の許しなく弟子を取らないことを誓約している。その署名には、
上野之住侏田豊五郎景兼(花押)この「上野之住」という記載は、少なくとも永禄九年二月晦日の時点で、景兼自身が上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)を居所として称していたことを示している。
景兼は上泉信綱の姉の子と伝えられ、信綱の本拠も上野国勢多郡上泉村(現在の群馬県前橋市上泉町周辺)にあった。景兼自身が「上野之住」と記していることは、こうした両者の関係を考えるうえでも興味深い。
さらに同年三月十日、景兼は同じ雲林院弥四郎入道に再び起請文を提出している。この起請文は前欠であるが、現存部分には、
一、於此一太刀別流不可相交事一、伊勢国中之人ニ伝申間敷事一、太刀印可ぉ態望輩候者、一文之外出申間敷之事とあり、「一太刀」について他流と交わらないこと、伊勢国の者には伝えないこと、さらに太刀の印可を望み求める者があっても「一文之外」へ出さないことが誓約されている。
これに続いて、
十文字鑓・薙刀之向上之手一つ、此国中ニ而相伝申間敷事とも記されており、十文字鑓・薙刀に関する伝授についても、伊勢国内で制限が設けられていたことがわかる。
二通の起請文がわずか十日ほどの間に同じ雲林院弥四郎入道へ提出されていることから、この時期の景兼と雲林院との間に、兵法の伝授をめぐる具体的な関係があったことがわかる。ただし、両者がどのような関係があったのか、また景兼がどのような立場でこれらの起請文を提出したのかについては、この二通だけからはわからない。
なお、三月十日付起請文の「態望」は、「望み求める」の意と解した。後代の用例では、天明七年(一七八七)の『飯高家文書』に、
我等倅政四郎儀御態望に付き御養子に指し遺わし候処とあり、「希望・要望」の意味で使われている。ただし、景兼の起請文とは二百年以上の年代差があるため、ここでは「態望」の意味を考えるための参考例としている。
二通の起請文は『三重県史 資料編 中世3(下)』pp.469–470に翻刻されている。同書の史料所在情報では、「岩尾文書」は「個人所蔵・調査」とされている。この岩尾文書と、熊本県立図書館所蔵の岩尾家文書(雲林院家文書)19通は、同一の所蔵群とは確認されていない。二通の現在の所蔵者・所在・来歴も未確認である。
史料翻刻
新当流兵法諸具足起請文一、御命不可相背之事一、此手別流不可相交之事一、為無師許弟子不可取之事若此条旨相背候者永禄九寅丙年二月晦日上野之住侏田豊五郎景兼(花押)雲林院弥四郎入道殿 参御宿所二紙目:新当流兵法起請文上者梵天、帝釈・四大天皇、殊ニ者王城之鎮守八幡大菩薩・摩利支天・鹿嶋・香取・愛宕地蔵大菩薩・氏神少も於偽御罰深可蒙者也、仍而起請文如件上野之住侏田豊五郎景兼(花押)永禄九年二月晦日雲林院弥四郎入道殿 参御宿所注:本文書の二紙目は、熊野牛玉宝印の裏面に書かれている。
(前欠)一、於此一太刀別流不可相交事一、伊勢国中之人ニ伝申間敷事一、太刀印可ぉ態望輩候者、一文之外出申間敷之事、付、十文字鑓・薙刀之向上之手一つ、此国中ニ而相伝申間敷事若此旨相背候ハ、此起請文深厚ニ可蒙者也、仍起請文如件永禄九寅丙年三月十日侏田豊五郎景兼(花押)雲林院弥四郎入道殿 参人々御中二紙目:上者梵天・帝釈天・四大天皇・殊者王城之鎮守八幡大菩薩・摩利支尊天・鹿嶋・香取・愛宕地蔵大菩薩・氏神少も於偽御罰深可蒙者也侏田豊五郎景兼(花押)永禄九寅年三月十日雲林院弥四郎入道殿 参人御中注:本文書の二紙目は、熊野牛玉宝印の裏面に書かれている。
出典:『三重県史 資料編 中世3(下)』pp.469–470、「岩尾文書」
1577・正文
織田信忠起請文
『細川家文書 中世編』図版44、203頁、174号文書(信忠2)。折紙・巻子装、283 × 452 mm。天正5年閏7月11日、宛名は「侏田豊五郎殿」。刊行本の解説は正文とする。
其方兵法新陰之流不残相伝祝着候、寄特無是非候、右之太刀之極意不可他言候、若此帋面於相違者、日本国中大小神祇可蒙罰者也、(天正五年)閏七月十一日信忠(花押)侏田豊五郎殿- 一次史料
- 『細川家文書 中世編』図版44・174号文書(信忠2)
- 史料記載
- 其方兵法新陰之流不残相伝祝着候……右之太刀之極意不可他言候……侏田豊五郎殿
- 現代語訳
- あなたから兵法「新陰之流」を残らず相伝されたことを喜ばしく思う。この太刀の極意を他言しない。誓いに違えば日本国中の大小神祇の罰を受ける。
- 読解
- 1577年までに、侏田豊五郎が「新陰之流」と明記された兵法を伝える立場にあったことを強く示す。
- 留保
- この一通から出生、上泉との具体的な修学時期、後世の伝記全体は導けない。正文という解説上の評価と、筆跡・自筆性は別問題である。
1589・血判
豊臣秀次血判起請文
『細川家文書 中世編』図版85、249頁、215号文書(秀次1)。竪紙・巻子装、310 × 500 mm。天正17年2月23日、宛名は刊行本の翻刻どおり「疋田分五郎とのへ」とする。
敬白起請文之事一、新陰流不可交他流事、一、無許条始参学太刀不可有他見事、一、封師道不可有疎意事、右条々於偽者、梵天帝釈四大天王惣而日本国中大小神祇、殊ニハ八幡大菩薩各可蒙御罰者也、仍如件、天正拾七年二月廿三日秀次(花押・血判)疋田分五郎とのへ- 一次史料
- 『細川家文書 中世編』図版85・215号文書(秀次1)
- 史料記載
- 新陰流不可交他流事/無許条始参学太刀不可有他見事/封師道不可有疎意事
- 現代語訳
- 新陰流に他流を交えない。許可なく、初めて学ぶ参学太刀を他人に見せない。師道に対して疎意を持たない。違反すれば諸神の罰を受ける。
- 読解
- 新陰流、参学太刀、師道、秘密保持を一組にした血判起請文であり、1600年の「新陰流参学之目録」へ用語上の橋を架ける。
- 留保
- 「参学太刀」は技術語のまま保持する。「封師道」の読解も刊行本の翻刻に従う。
史料表記
史料に現れるさまざまな名前
1577年の「侏田豊五郎」、1589年の「疋田分五郎」、徳川秀忠起請文の「疋田文五郎とのへ」、1600年の「疋田豊五郎入道景兼」、後の「栖雲斎」。
表記は異なるが、年代や伝授の文脈に加え、「景兼」「栖雲斎」といった名が、これらの史料をつないでいく。
| 年 | 史料表記 | 流名・術語 | 文書 |
|---|---|---|---|
| 1566 | 侏田豊五郎 | 新當流 | 雲林院弥四郎入道宛の二通の起請文。二月晦日付と三月十日付。現所蔵は未確認。 |
| 1577 | 侏田豊五郎 | 兵法新陰之流 | 織田信忠起請文。 |
| 1589 | 疋田分五郎 | 新陰流/参学太刀 | 豊臣秀次血判起請文。 |
| 年代未掲 | 疋田文五郎 | — | 徳川秀忠起請文の宛名。本章の確認範囲では日付を掲げない。 |
| 1599 | 疋田景兼 | 新陰之流 | 黒田長政宛、福岡市博物館所蔵資料。 |
| 1600 | 疋田豊五郎入道景兼 | 新陰流 | 長岡与九郎宛の絵目録。 |
| 年代未掲 | 藤原朝臣景兼/疋田豊五郎入道/栖雲斎 | 新陰流鑓目録 | 細川内記宛の鑓目録。 |
伝授の広がり
信忠・秀次・秀忠
織田信忠、豊臣秀次、徳川秀忠に関係する起請文が残る。安全にいえるのは、16世紀後半に高位の政治・軍事的人物が疋田へ秘密保持・伝授関係の誓約文書を出したことまでである。
刊行本解説の「天下人クラス」という評価を用いる場合も、史料本文の自称ではなく編者の評価として読む。「三英傑の師」のような物語化や、後世の試合逸話は持ち込まない。
1599・福岡
疋田景兼から黒田長政へ
福岡市博物館の目録情報は、発給者を疋田景兼、受取人を黒田長政、日付を慶長4年(1599)5月とする。資料番号104、紙本着色・墨書、巻子装、折紙、縦31.9 cm・横48.8 cm。英語目録名は Illustrated Scroll of the Shinkage School of Japanese Fencing である。
確認済みの原文画像には「新陰之流」と見える。これは目録情報と画像読解を組み合わせた確認である。
- 一次史料
- 福岡市博物館所蔵資料104の目録情報と確認済み画像
- 史料記載
- 疋田景兼/黒田長政/慶長4年5月/新陰之流
- 現代語訳
- 疋田景兼の伝授活動に直接関係し、黒田長政を受取人とする文書で、「新陰之流」の表記を用いる。
- 読解
- 1577年の受領側の起請文だけでなく、1599年には疋田景兼から高位人物へ向かう伝授文書の側も確認できる。
- 留保
- 目録上の発給・受取・年代と、現存文書の原本性・筆者・自筆性は分ける。博物館の後代的な人物解説は二次説明である。

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1600・絵目録
疋田豊五郎入道景兼から長岡与九郎へ
『細川家文書 故実・武芸編』図版95「疋田豊五郎入道景兼新陰流兵法目録」。慶長5年2月吉日、長岡与九郎宛。解説によれば「新陰流之猿飛之目録」「新陰流参学之目録」「位詰之目録」の三部、計18項目から成る絵目録である。
次の奥書は単純な左から右の文章ではなく、伝授系譜を含む縦の構造として示す。ここでは、文書に記された「藤原信綱朝臣」の名をそのまま掲げる。
- 鵜戸大権現
- 愛洲移香
- 愛洲小七郎
- 藤原信綱朝臣
- 上泉武蔵守
- 疋田豊五郎入道
- 慶長五年/二月吉日
- 長岡与九郎殿江
- 景兼(花押・印)/相伝之
縦の配置を、単純な横一列の文や直接教授の連鎖として読まない。
- 一次史料
- 『細川家文書 故実・武芸編』図版95
- 史料記載
- 藤原信綱朝臣/上泉武蔵守/疋田豊五郎入道/景兼(花押・印)相伝之
- 現代語訳
- 伝授系譜の中に藤原信綱朝臣、上泉武蔵守、疋田豊五郎入道を置き、景兼の花押・印を伴って長岡与九郎への相伝を記す。
- 読解
- 一つの文書が「疋田豊五郎入道」と実名「景兼」を直接結び、疋田側の伝授系譜を上泉武蔵守・藤原信綱朝臣へ遡らせる。
- 留保
- 縦の配置を単純な一文や、すべて直接教授の列へ変えない。文書の伝授権威、現存資料の原本性、各文字の筆者・自筆性は別々に検討する。
表記比較
新陰之流と新陰流
疋田の伝授活動に直接関係する文書では、「新陰之流」と「新陰流」の双方が確認できる。とくに1599年5月と1600年2月の文書は約9か月しか隔たらず、いずれも疋田景兼が武芸内容を伝える側の文脈に属する。
したがって、「之」の有無だけを根拠に史料の真贋を判定することはできない。通常の文法、文書様式、書写慣行、筆者の違い、流名の語彙化の程度などは仮説として考えられるが、どれか一つを選ぶ証拠はない。
| 年 | 文書関係 | 史料表記 | 文書の性格 |
|---|---|---|---|
| 1577 | 織田信忠 → 侏田豊五郎 | 兵法新陰之流 | 起請文 |
| 1589 | 豊臣秀次 → 疋田分五郎 | 新陰流 | 血判起請文/参学太刀 |
| 1599 | 疋田景兼 → 黒田長政 | 新陰之流 | 福岡市博物館所蔵資料 |
| 1600 | 疋田豊五郎入道景兼 → 長岡与九郎 | 新陰流 | 猿飛・参学・位詰の絵目録 |
術語の連続
参学 — 1589年から1600年へ
1589年の血判起請文には「参学太刀」、1600年の絵目録には「新陰流参学之目録」とある。疋田の伝授文脈をまたいで「参学」という語が現れることは、術語上の連続を強く示唆する。
第一章へ
猿飛 — 愛洲関係史料との接点
1600年文書の「新陰流之猿飛之目録」は、第一章で検討した愛洲・陰流関係史料の「猿飛」へ、本章から明確な比較線を引く。
同名であることは重要だが、同一の身体技法や不変の内容を自動的に意味しない。名称、順序、図、説明本文を史料ごとに確認できる範囲で比較する。
方法上の到達点
疋田の史料から上泉へ
本章は疋田を上泉の弟子と仮定して探し始めていない。疋田に関係する文書を追った結果、1600年の伝授文書そのものが「藤原信綱朝臣」「上泉武蔵守」へ達した。
第二章が独立に確認した『言継卿記』の「上泉武藏守信綱」、および二次文献経由で確認した『歴名土代』の「上野國上泉住、大胡武藏守 藤信綱」と照らすと、疋田側の比較的早い伝授文書が同じ上泉武蔵守/信綱へ向かうことが分かる。文書から文書へ進んだ到達点である。
同一奥書
景兼・豊五郎・栖雲斎
『細川家文書 故実・武芸編』図版96「疋田豊五郎入道栖雲斎新陰流鑓目録」の奥書は、一つの構造の中に「藤原朝臣景兼」「疋田豊五郎入道」「栖雲斎」を連ねる。後世の人物伝だけに頼るより強い、名称間の直接的な文書証拠である。
宛名は「細川内記殿」。刊行本解説は細川忠利と同定するが、本文が文字どおり「忠利」と記すわけではないため、編者による同定として扱う。
- 鵜戸大権現
- 愛洲移香
- 同小七郎
- 藤原信綱朝臣
- 上泉武蔵守
- 藤原朝臣景兼
- 疋田豊五郎入道
- 栖雲斎(花押・印)
- 進上/細川内記殿/参
縦の配置を、単純な横一列の文や直接教授の連鎖として読まない。
- 一次史料
- 『細川家文書 故実・武芸編』図版96
- 史料記載
- 藤原朝臣景兼/疋田豊五郎入道/栖雲斎(花押・印)/進上 細川内記殿 参
- 現代語訳
- 一つの奥書が景兼、疋田豊五郎入道、栖雲斎を連続して示し、細川内記へ進上する。
- 読解
- 三つの名を同一人物の実名・通称・入道号として結ぶうえで、直接性の高い文書証拠となる。
- 留保
- 細川内記=細川忠利は刊行本編者の同定。本文の字面と区別する。花押・印があっても、文書全体を疋田の自筆とは断定しない。
兵法の射程
新陰流鑓目録
内題は「上下之鎗合 口伝」。刊行本解説は鑓の項目を9項目とし、「遣方」の書面説明がないのは口伝によるためだと説明する。後者は史料本文ではなく編者の解釈として示す。
疋田の活動を現代的な「剣術」だけに縮めてはならない。確認できる語は兵法、新陰流、太刀、参学、猿飛、位詰、そして鑓であり、伝授の射程は複数の武芸内容に及ぶ。
後代写本
『廻国記』は後から読む
同時代・近世初期の疋田関係文書を組み立てた後で、『疋田豊五郎入道栖雲斎廻国記』を読む。現在利用できる本文は後代の写本・書写伝承であり、疋田の同時代自筆原本ではない。
細川藤孝への奉公、諸国遍歴、24度の勝負と勝利、豊前への帰還、細川忠興への奉公、石高などは、写本系統・原本・外部史料の照合なしに確定事実へ格上げしない。まず先行する文書年表と比較し、一致・不一致・未確認を分ける。
A
同時代・近世初期文書
発給、宛名、日付、本文、奥書を、確認できた範囲で読む。C
後代写本・伝承
写本系統と外部史料を確認するまで、伝記的主張を同時代事実にしない。肥後の記憶
和田喜傳が語った疋田
『肥後武道史』の系譜は和田喜傳高安で終わる。和田喜傳は「傳書より見たる劍道新陰流」を執筆し、昭和8年(1933)頃に新聞連載した。昭和6年(1931)の天覧武道大会関係資料には、新陰流の打太刀・和田喜傳、仕太刀・古賀榮信とある。
したがって和田は、肥後新陰流の近代の実践者・伝承者が家伝・伝書をもとに疋田をどう記憶し解釈したかを示す人物として位置づけられる。
第二部
後代の伝承・疋田家の歴史・未解決の問い第一部で組み立てた文書年表とは別の層として読む。後世の研究、疋田家の家伝、現代の出来事を、16世紀の事実へ遡及させない。A / C — 伝承系譜
伝承系譜上の位置
新陰流疋田伝に伝わる系譜では、疋田栖雲斎は上泉武蔵守と上野左右馬助景用の間に置かれている。福岡市博物館所蔵『新陰流形組絵図』の確認済み部分にも、愛洲移香、愛洲小七郎、上泉武蔵守、疋田栖雲斎の順に名が記されている。
本サイトは、この史料に記された「疋田栖雲斎」を系譜の名として用いる。第一部で扱った侏田豊五郎、疋田分五郎、疋田文五郎、疋田豊五郎入道景兼は、いずれも史料ごとの表記として第一部に置く。系譜に現れる名は、文書の表記のまま示す。
C / G — 後世史料・未確認
後世の伝承に現れる名の表記
1938年の『週刊朝日』記事では、和田氏が主として「疋田文五郎」と呼び、文五郎/豊五郎や「引田」の表記について語っている。これは20世紀の伝承者による回顧であり、16世紀の名乗りを直接確定する史料ではない。第一部で扱った文書表記とは層を分ける。
匹田・曳田を含む異表記は探索上の候補である。「引田」は1938年の記事に現れる表記である。豊五郎自身に関係する文書で確認できる名とは、分けて見ておきたい。
C / G — 後代写本・未確認
師弟関係について確定できないこと
『廻国記』は豊五郎を語り手とし、上泉武蔵守の弟子であると述べる。第一部の1600年伝授文書が「上泉武蔵守」「藤原信綱朝臣」へ達することと合わせても、初対面の年、教授の場所、相伝の範囲までは分からない。
27歳頃の相伝、武者修行・廻国への出立、「疋田一流」を広めるよう命じられたという筋書きは、現在確認した資料本文から確定できない。柳生宗厳や丸目蔵人と豊五郎の序列や相互関係も、本稿の資料だけでは定めない。確かなのは、疋田系の伝承線が柳生家を経由せず、上泉から豊五郎へ続くものとして保存されていることである。
E / F / G — 現代研究・家伝・未確認
出自と血縁をめぐる伝承
第一部の文書は疋田の伝授活動を示す一方で、出生地や血縁については語らない。以下は後世の研究と疋田家の家伝に属する層であり、16世紀の事実として第一部の年表へ組み入れない。
E / F / G — 現代研究・家伝・未確認
加賀と越前・敦賀
越前国敦賀郡匹田村に疋田家を結びつける後世の説がある。しかし、その説を記す資料本文と成立年代は現在のリポジトリで確認できず、ここでは研究課題としてのみ掲げる。
一方、『新陰流(疋田伝)の研究』1頁は豊五郎を加賀生まれと叙述するが、確認した頁にはこの主張に対応する個別の一次史料注がない。疋田家にも、現在の伝承保持者が幼い頃に祖母から「豊五郎は加賀の出身で、自分達も縁がある」と聞いたという家伝がある。関係を記した文書を見た記憶と、年に一度、床の間に長い系図が飾られた記憶もあるが、現在の保管場所は不明である。文書と系図の年代・内容を確認できないため、加賀出身を確定しない。越前・敦賀説と加賀伝承のどちらかを選ぶ段階にはない。
E / F — 現代研究・家伝
上泉信綱の甥という伝承
『新陰流(疋田伝)の研究』1頁は、豊五郎の母を上泉信綱の姉とする伝記像を示す。ただし、確認した頁では主張ごとの原史料を追えない。疋田家にも、豊五郎は「上泉信綱の姉の子」だったという家伝が独立に記憶されている。後世の叙述と現在の家伝が一致することは興味深い点である。二つの伝承はここで一致する。ただし、叔父・甥関係を示す同時代史料は、まだ確認できていない。
F — 疋田家家伝
疋田家に残る「兼」
非公開の疋田家系図では、後代の複数の名に「兼」の字が用いられている。しかし、現在の家伝保持者は、それが豊五郎の「景兼」に由来するという話を聞いたことがない。したがって、ここでは関係不明の観察としてのみ記録する。家族の希望により、個人名と系図画像は掲載しない。
C / G — 後代写本・未確認
『廻国記』の旅程と立合い
第一部で述べたとおり、現在利用できる『廻国記』は後代の写本・書写伝承であり、参照しているのはプロジェクト研究用のMarkdown作業転写である。原本の所在、来歴、年代、自筆か写本か、写本系統、転写元、編集履歴、文字の正確性は未確認である。それでも、豊五郎を諸国で立ち合いを重ねる人物として描く、現時点で最も具体的な本文である。
転写から安全に拾える地名と出来事だけを下表に置く。旅程の順序や中間経路が確認できない箇所を線で結ぶことになるため、現段階では地図を作成しない。末尾は、帰着後に報告し、下問を受けて書き留めたという体裁を示すが、細川忠興の直接命令による公式記録とは断定できない。
立合いの数も資料ごとに一致しない。『廻国記』に依拠する叙述は24度の勝負と勝利を伝え、1938年の記事で和田氏は「二十三か二十七か」と回顧している。いずれも後世の肥後側の叙述であり、個々の勝敗を裏づける相手方記録は確認できない。25人全勝という定型的な物語へ丸めることもしない。
| 年 | 場所 | 人物 | 出来事 | 史料 | 史料上の確度 |
|---|---|---|---|---|---|
| 年未詳 | 伊勢 | 人物未確定 | 行程中の訪問地として作業転写に現れる。 | 『廻国記』作業転写 | 原本・外部照合未確認 |
| 年未詳 | 山城・京都 | 人物未確定 | 行程中の地域として作業転写に現れる。 | 『廻国記』作業転写 | 原本・外部照合未確認 |
| 年未詳 | 武蔵岩付 | 筑摩利兵衛 | 猿飛・三学・位詰に言及する立合いが語られる。 | 『廻国記』作業転写 | 人物・事件とも外部照合未確認 |
| 慶長6年(1601)2月15日 | 豊前 | 疋田豊五郎 | 船で帰着したと記す。 | 『廻国記』作業転写 | 転写上の日付。到着地・外部記録未確認 |
A / C / E / G — 史料・伝承・研究・未確認
細川家への奉公と石高の相違
織田信忠と豊臣秀次については、第一部で『細川家文書 中世編』の図版・文書番号により起請文そのものを扱った。両者との接点は、後世の説ではなく文書の側から確認できる段階にある。
残るのは細川家をめぐる接点である。『廻国記』作業転写には「細川兵部太夫家中」「忠興公」の語が見えるが、家中の制度的意味、任官・知行の詳細は未確定である。細川藤孝(幽斎)については、現在の登録資料で直接の記述を確認できない。藤孝との関係を示す史料は、現在のところ確認できていない。
石高は資料ごとに異なる。合算・調停せず、相違したまま示す。
| 人物 | 確認できる接点 | 未解決事項 | 史料層 |
|---|---|---|---|
| 細川藤孝(幽斎) | 現在の登録資料では直接の記述を確認できない | 忠興との記述から遡って関係を作らない | 未確認 |
| 細川忠興(三斎) | 『廻国記』作業転写に「細川兵部太夫家中」「忠興公」 | 家中の制度的意味、任官・知行の詳細は未確定 | 後代写本の本文 |
| 黒田長政 | 『新陰流形組絵図』に長政への宛名(第一部06節) | 宛名は確認できるが、弟子関係や教授の経緯は示さない | 近世初期資料 |
| 資料 | 記述 | 扱い |
|---|---|---|
| 1938年の和田氏の語り | 丹後で150石、辞禄・剃髪・廻国、小倉で再会 | 後世の肥後側伝承 |
| 『廻国記』作業転写 | 本知200石/宇佐郡/忠興公より200石という趣旨 | 構文・制度上の意味・相互関係が未確定 |
| 2007年の現代研究(10頁) | 350石で出仕 | 該当頁に主張別の一次史料注を確認できない |
出典・参考廻国記新陰流(疋田伝)の研究『週刊朝日』昭和13年(1938年)6月26日号「古武道の真髄を語る」新陰流形組絵図
C / E / G — 伝承・研究・未確認
豊五郎の後 — 肥後へ伝わった兵法
現在の伝承系譜と現代研究は、豊五郎の後に上野左右馬助景用を置き、上野家を経て和田家へ続く線を伝える。これは兵法上の相伝を表す系譜であり、生物学的な家系図ではない。現在の『廻国記』作業転写は景用を名指しせず、豊五郎から景用への教授日時・場所・内容を示す直接史料も未確認である。
1938年の和田氏の語りには、豊五郎が妻帯せず、上野相馬之介へ譲ったという伝承がある。一方、勝重を子または後継者とする説は、現在のリポジトリでは出典本文を確認できない。両者を調和させず、家族関係を未解決のまま残す。兵法上の相伝と血縁上の系譜は別の問題である。
- 疋田豊五郎景兼
- 上野左右馬助景用
- 上野家
- 和田家
出典・参考新陰流(疋田伝)の研究肥後細川藩―新陰之流伝書集『週刊朝日』昭和13年(1938年)6月26日号「古武道の真髄を語る」
A / F / G — 史料・家伝・未確認
筑前に残った疋田家と福岡藩
現在の疋田家家伝は、この家が疋田小三次(小三治)の直系であり、豊五郎の記憶を伝えてきたとする。これは、肥後へ続いた兵法の伝承線とは別に、筑前で疋田家の歴史を調べる入口になる。
元和期の分限帳に「折尾・疋田小三次」「知行弐百石」が見えるという指摘は、現在のリポジトリに資料本文・書誌・頁がない。引用を事実として掲載せず、原本または信頼できる翻刻を確認する次の調査項目とする。豊五郎の兵法が肥後方面へ進んだことと、疋田家が筑前に残ったことを、同一の道筋とは仮定しない。
福岡市博物館の資料情報では、『新陰流形組絵図』の「作者等」の欄に「疋田景兼」が記載され、巻子には黒田長政への宛名が確認されている。これは疋田景兼に関係する兵法資料と黒田長政の接点を示す。
黒田家との対立、家の抑圧や再興、兵法が門弟を通じて残ったという疋田家の伝承には、公開史料による照合と家族による文言確認が必要である。ここでは私信を引用せず、未確認の家伝を歴史叙述へ組み込まない。今後、分限帳・家譜・藩政史料の本文を確認してから追補する。
F — 疋田家家伝
疋田家に残る「豊五郎さん」
疋田家では、豊五郎は距離のある歴史上の名ではなく、「豊五郎さん」と呼ばれてきた。家には、豊五郎が上泉信綱の姉の子であったこと、加賀から来たこと、自分たちにも縁があることが語り継がれている。現在の伝承保持者は、関係を記した文書を見た記憶と、年に一度、床の間に非常に長い系図が飾られた記憶をもっている。
その文書と系図の現在の保管場所は不明で、内容と年代を検証できない。ここでの価値は、16世紀の出自や血縁を証明することではなく、疋田豊五郎が疋田家のなかでどのように記憶されてきたかを記録する点にある。生存する個人を特定できる情報、私信、系図画像、非公開の個人名は掲載しない。
B — 読解
人・家・兵法 — 三つの歴史
ここまでの史料を一つの物語へ畳み込まず、三つの歴史として見る必要がある。第一は、諸国を移動し、立ち合い、教えたと記録される疋田豊五郎本人の歴史。第二は、筑前との結びつきのなかで豊五郎の記憶を保った疋田家の歴史。第三は、血縁とは別に門弟と後代の肥後諸家へ伝えられた新陰流の兵法の歴史である。
柳生の場合には家と兵法伝承が比較的強く重なって見えるのに対し、疋田の場合には、個人、家、兵法の道が次第に分かれた、と解釈できる。人の歴史、家の歴史、兵法の歴史は同じではない。
H — 現代の記録
小倉で再び交わった二つの系譜
縁あって2024年、小倉公園において、このウェブサイトを担う新陰流疋田伝の現伝承者から、現在の疋田家の子孫へ「猿飛」の形を伝えることができた。
かつて諸国を歩いて兵法を伝えたという疋田豊五郎。その名を伝えてきた家と、その兵法を伝えてきた者が、数百年を経て再び小倉で出会った。人と家と兵法。それぞれ別の道を歩んできた三つの歴史は、現在も続いている。
結論
史料を追った結果としての系譜
京都の上泉信綱周辺史料を調べても、疋田豊五郎は容易には現れなかった。しかし疋田自身に関係する文書を年代順に追うと、侏田豊五郎、疋田分五郎、疋田文五郎、疋田豊五郎入道景兼、栖雲斎という複数の表記の向こうから、一人の兵法家の活動が次第に見えてくる。
1577年の「新陰之流」、1589年の「新陰流」と「参学太刀」、1599年の「新陰之流」、1600年の「新陰流之猿飛之目録」「新陰流参学之目録」「位詰之目録」。そして1600年の伝授系譜そのものが、愛洲移香、愛洲小七郎、藤原信綱朝臣、上泉武蔵守、疋田豊五郎入道景兼を結ぶ。
疋田豊五郎を「上泉信綱の弟子」として探したのではない。疋田豊五郎の史料を追った結果、上泉信綱へたどり着いたのである。第一章の愛洲・陰流・猿飛、第二章の同時代史料における上泉武蔵守信綱、本章の疋田自身の伝授文書は、別々に検討され、残る文書の側から接続し始める。
そして第二部では、人の歴史、家の歴史、兵法の歴史が、どこで重なり、どこで分かれていったのかを追った。何が文書に書かれ、何が後代の伝承にとどまり、何がまだ分からないのかを、混ぜずに残しておきたい。
次章は、検証できる史料と範囲が定まった段階で続く。ここでは内容を先取りしない。
典拠
史料と確認範囲
発給・伝授権威、現存資料の原本性、筆跡・自筆性を分け、刊行本の翻刻と編者解説も区別する。
A — 史料層
『三重県史 資料編 中世3(下)』
pp.469–470に、永禄九年二月晦日付と三月十日付の二通の「侏田景兼起請文」を収録する。史料所在情報は「岩尾文書」を「個人所蔵・調査」とするが、これは同書編纂時の情報であり、現在の所蔵者・所在・来歴は確認していない。本実装は提供された翻刻を用い、該当頁画像との全文逐字照合は未了。
A — 史料層
熊本県立図書館からの回答
同館所蔵の岩尾家文書(雲林院家文書)は、四巻にまとめられた新當流・新陰流関係伝書19通である。現在確認できる情報からは、本章の二通の1566年起請文が同館資料に含まれるとはいえない。『三重県史』が「個人所蔵・調査」とする岩尾文書と同一の所蔵群であるとも確認していない。
A — 史料層
『細川家文書 中世編』
図版44・203頁・174号文書(信忠2)、図版85・249頁・215号文書(秀次1)、解説346–347頁。
A — 史料層
福岡市博物館所蔵資料 104
疋田景兼発給、黒田長政宛、慶長4年(1599)5月。紙本着色・墨書、巻子装、折紙、31.9 × 48.8 cm。画像で「新陰之流」を確認。章内の3ファイルは暫定画像であり、提供予定の同館公式カラー画像ではない。
A — 史料層
『細川家文書 故実・武芸編』
徳川秀忠起請文、図版95「疋田豊五郎入道景兼新陰流兵法目録」、図版96「疋田豊五郎入道栖雲斎新陰流鑓目録」。本章は刊行本の翻刻と解説を区別する。
C — 史料層
『疋田豊五郎入道栖雲斎廻国記』
現在利用できるのは後代の写本・書写伝承。疋田自筆の同時代原本としては扱わない。
C — 史料層
『肥後武道史』/和田喜傳「傳書より見たる劍道新陰流」
昭和8年(1933)頃に新聞連載された和田喜傳の論考。系譜末尾は和田喜傳高安。
A / C — 史料層
昭和6年天覧武道大会関係資料
新陰流、打太刀・和田喜傳、仕太刀・古賀榮信の記載。近代の活動記録であり、16世紀の系譜主張を立証しない。
第二部
第二部で用いた史料・資料
各資料の確認範囲を示す。資料名が挙がることは、内容全体や伝来・自筆性が確認済みであることを意味しない。
本文史料・参照形態に留保あり
慶長五年 新陰流伝書(疋田豊五郎入道景兼関係)
- 確認範囲
- 提供された転写を確認・原資料未確認
疋田豊五郎入道景兼に関係する新陰流伝書の系譜記載として、「上泉武蔵守」「藤原信綱朝臣」の二つの表記を確認。上泉本人と同時代の記録ではなく、疋田系伝承における比較的早い「信綱」の用例として扱う。原資料の所在・来歴・全本文は未確認。
本文史料・参照形態に留保あり
廻国記
- 確認範囲
- 作業転写を確認・原本未確認
作業テキストの関連箇所を確認。原本の所在・来歴・年代・自筆性・写本系統、転写元、編集者、校訂履歴、文字の正確性は未確認。〔 〕内の説明、疑問符、補入、推定読解は歴史本文と区別する。
現代研究・掲載資料
新陰流(疋田伝)の研究
- 著者
- 赤羽根龍夫・赤羽根大介
- 確認範囲
- 掲載図版・関連記述を確認・原資料未確認
掲載された疋田関係資料と後代の伝承資料を確認。豊五郎の伝記については、1頁の天文4年頃・加賀生・父母・景兼の叙述と、10頁の三百五十石の叙述を画像で確認したが、該当頁には個別の一次史料注を確認できなかった。上野家人物同定では、11頁の『肥後武道史』参照系譜図、39頁のOCR誤読箇所、89頁の林家伝書活字翻刻を画像で確認し、研究図と掲載翻刻を分離した。原資料の来歴・筆者は独立に確認していない。年代・翻刻判断も未確認。
近現代の資料集・翻刻
肥後細川藩―新陰之流伝書集
- 確認範囲
- 関連部分を比較確認・原資料未確認
鈴鹿家文書、国際武道大学所蔵資料、細川侯蔵/細川候蔵と記された伝書類、後代の写本・転写など、複数の肥後新陰之流関係資料を集成・翻刻した資料集。上野系伝承、猿飛、参学/三学、位詰、八種の目着等の関連部分を確認した。編者は句読点・送り仮名・補入・解釈に誤りの可能性があると注意しており、本サイトも原資料の来歴・本文・自筆性を独立に確認したとは扱わない。
匿名化した疋田家家伝
疋田小三次(小三治)の直系と伝える疋田家の家伝
疋田小三次(小三治)の直系であると伝える疋田家の、匿名化した家伝。豊五郎を上泉信綱の姉の子、加賀出身とし、家では「豊五郎さん」と呼ぶ。関係文書と年一度床の間に飾られた長い系図の記憶があるが、現所在・年代・内容は未確認。非公開系図の個人名・画像、私信、生存する伝承保持者を特定できる情報は記録・公開しない。
近世初期資料・公開目録と掲載部分を確認
新陰流形組絵図
- 作者等
- 疋田景兼
- 確認範囲
- 確認済み翻刻
福岡市博物館の公開目録情報と、公開中の伝系部分・資料構成を参照。作者等、年代、黒田長政への宛名は資料記録の範囲で扱う。
資料を確認する後世の伝承者による記事・1938年
『週刊朝日』昭和13年(1938年)6月26日号「古武道の真髄を語る」
原画像、目視再確認済みの原文転写、現代語訳を参照。和田氏の発言は1938年の伝承者による語りとして扱う。
資料を確認する本文未確認・今後確認する史料
これらの資料が現在の解釈を裏づけるとは限らない。本文と文脈を確認してから反映する。
- 『廻国記』原本または権威ある校訂本文所在・来歴・年代・自筆/写本の別・写本系統
- 今回参照した『廻国記』転写の底本転写元・作成者・編集履歴・校訂方針
- 『廻国記』原資料画像本文・〔 〕内説明・疑問符・補入・不確定文字の照合
- 『廻国記』の上泉武蔵守関係箇所名の後に続く文字を含む正確な読解
- 『廻国記』の細川家関係箇所家中・忠興公・宇佐郡・二百石の語義と文脈
- 『廻国記』に記される各地の立合い個別事件・人物・地名・時系列の外部史料による照合
- 慶長6年の豊前帰着と後代の上野景用伝承年代的近接と相伝関係の史料別検討
- 廻国記・疋田関係伝書・肥後伝書・現在伝承猿飛・三学/参学・位詰・術語の比較
- 「疋田殿自筆書」として掲載される各資料原資料の来歴・現所蔵・筆者・年代
- 疋田豊五郎の同時代史料伝記・活動を裏づける本文と文脈
- 上泉武蔵守と疋田豊五郎の関係資料教授・相伝の日時・場所・内容・範囲
- 疋田豊五郎から上野左右馬助景用以下へ続く資料個別資料による相伝経路
- 疋田豊五郎に関する通説的伝記各主張の出典と史料区分
人手確認が必要
未解決の調査課題
- 『三重県史』が「個人所蔵・調査」とする岩尾文書中の二通の1566年起請文について、現在の所蔵者・所在・来歴。
- 疋田の伝授活動に関係する各文書の原本性、書写関係、筆跡・自筆性。
- 「新陰之流」と「新陰流」の表記が異なる理由。
- 新陰流を伝えた疋田に関係する文書が「新當流」「新当流」と記される理由。
- 黒田長政宛の福岡市博物館所蔵資料について、本章が目録情報から示す慶長4年(1599)5月と、当サイトのアーカイブ記録および第二部が用いる慶長5年(1600)が一致しない理由。
- 『廻国記』後代写本に主として依存する旅程、試合、奉公、石高その他の伝記的主張。
- 立合いの数が24度、「二十三か二十七か」と資料ごとに異なる理由。
- 豊五郎の出自について、越前・敦賀説と加賀伝承のいずれを採るべきか。
- 豊五郎を上泉信綱の姉の子とする後世の叙述と疋田家家伝の一致が、実際の血縁関係を示すか。
- 妻帯せず上野相馬之介へ譲ったという伝承と、勝重を子または後継者とする説の関係。
- 元和期分限帳の「折尾・疋田小三次」「知行弐百石」の本文・書誌・頁。
- 黒田家との対立、疋田家の抑圧と再興を語る家伝の公開史料による照合。