歴史・第二章

第二章|上泉武藏守 — 同時代史料に見る兵法家とその人脈

後世の完成した人物像からではなく、同時代人が記した名、来訪、相傳、交友の連なりから、京都で活動した兵法家の輪郭を組み立てます。

第一部同時代史料に見る上泉武蔵守

今日、上泉信綱は「上泉伊勢守信綱」「新陰流の祖」「剣聖」といった後世の呼称とともに知られる。本章はそれらを史料に先回りして置かず、山科言継の日記『言継卿記』を中心に、同時代の記載から人物像と人脈を組み直す。

引用は刊行本の表記を尊重し、判読や校訂が必要な箇所を黙って現代的な文字へ直さない。史料に記されたことと、そこから読み取れることを分けながら見ていく。

00

読む前に

後世の名から始めない

本章で追う三つの表記は、大胡武藏守、上泉武藏守、上泉武藏守信綱である。「上泉伊勢守信綱」へ統一すれば読みやすいが、同時代の書き分けと、それを同一人物と判断する根拠が見えなくなる。

そこで固有名詞は引用中の形を保持し、本文ではどの史料にもとづく呼称かを示す。

大胡武藏守
日記本文に反復する表記。改姓については記していない。
上泉武藏守
別の記事と書状に現れる表記。大胡と同じ人物であることは文脈から読む。
上泉武藏守信綱
永祿13年5月23日条に実名「信綱」まで続けて記された形。
上野國上泉住、大胡武藏守 藤信綱
『歴名土代』が居所・大胡の呼称・実名を一項目に記す形。
一次史料
『言継卿記』永祿12年から元龜2年の確認記事
史料記載
大胡武藏守、上泉武藏守、上泉武藏守信綱という複数の表記が現れる。
現代語訳
同時代の記録は、今日一般的な一つの名前ではなく、場面ごとに異なる呼び方を残している。
読解
表記の違いを残すことで、同一人物とみる根拠がどこにあるのかをたどれる。改姓の時期や理由、後世に伝わる「伊勢守」との関係は、これらの表記だけからは分からない。
01

永祿十二年

「大胡武藏守」が現れる

永祿12年2月2日条では、平野預子長松丸、耆婆宮内大輔とともに「大胡武藏守」が来訪する。兵法の英雄譚ではなく、言継の日常的な訪問記録の中にまず姿を現す。

ここから確かめられるのは、言継の交際圏に大胡武藏守と記された人物がいたことまでである。

一次史料
『言継卿記』永祿十二年二月二日条
史料記載
平野預子長松丸、耆婆宮内大輔、大胡武藏守等同道來……
現代語訳
長松丸、耆婆宮内大輔、大胡武藏守らが連れ立って訪ねてきた。
読解
大胡武藏守は単独の兵法記事だけでなく、言継をめぐる訪問と交際の場に現れる。
02

永祿十三年

「上泉武藏守」と表記の併存

『言継卿記』には永祿13年から「上泉武藏守」が現れるが、その後も「大胡武藏守」「大胡」と記される。二つの表記は、時期をまたいで併存している。

日記は改名の経緯を語らない。両者を結ぶ別史料は、5月の記事の後で見る。

  1. 大胡武藏守

    長松丸・耆婆宮内大輔と同道して来訪。

  2. 上泉武藏守信綱

    実名を含む表記と相傳・書写。

  3. 大胡武藏守/大胡

    千秋・鈴木らと兵法に関わる場面。

  4. 大胡武藏守/上泉武藏守

    同一記事の日記本文と書状で二つの表記。

一次史料
『言継卿記』永祿12年から元龜2年の関連記事
史料記載
大胡武藏守・大胡と、上泉武藏守・上泉武藏守信綱の用例が時期をまたいで現れる。
現代語訳
日記は大胡と上泉の表記を単純に前後へ分けず、後の時期にも両方を用いている。
読解
日記の用例は、一方向の改姓年表ではなく、場面に応じた呼称の使い分けを示す。
03

永祿十三年五月廿三日

「上泉武藏守信綱」と相傳

5月23日条は、実名まで含む「上泉武藏守信綱」を記す。続くのは軍敗〔配カ〕・取向・總捲などの相傳、酒席への同席、一巻の書写、さらに調子占一巻の書写である。

「軍敗〔配カ〕」は刊行本の読みである。「總捲」「調子占」の具体的な内容は分かっていない。

国書刊行会版『言継卿記』第四の版面。永祿十三年五月廿三日条の「上泉武藏守信綱來」と周辺の記事が見える。
永祿十三年五月廿三日条。「上泉武藏守信綱來」は版面下部に見える。日付と周辺の記事を含む全体を掲載した。永祿十三年五月廿三日 · 『言継卿記』第四 · 国書刊行会 · 大正4年(1915) · 国立国会図書館デジタルコレクション · 史料画像を原寸で開く
画像の出典は国書刊行会版の国立国会図書館デジタルコレクション画像。権利者、利用条件、転載許諾は未確認であり、ライセンス、パブリックドメイン、転載許可を示すものではない。

該当箇所

上泉武藏守信綱來、軍敗〔配カ〕取向、總捲等令相傳之、勸一盞、中御門、雲松軒等相伴了、一卷寫之、又調子占之一卷寫之

一次史料
『言継卿記』永祿十三年五月廿三日条
史料記載
上泉武藏守信綱來、軍敗〔配カ〕取向、總捲等令相傳之、勸一盞、中御門、雲松軒等相伴了、一卷寫之、又調子占之一卷寫之
現代語訳
上泉武藏守信綱が来訪し、軍敗(軍配か)・取向・總捲などを伝えた。酒を勧め、中御門や雲松軒らも同席し、一巻と調子占の一巻を書写した。
読解
来訪、兵法に関わる相傳、宮廷人を交えた酒席、文書の書写が一続きに記録される。実践と文書伝承が同じ交流の中にあった。「一卷寫之」とあるが、何を書写したのかは記されていない。
04

永祿十三年五月廿六日

言継・倉部らへの「取向」

三日後、上泉武藏守は再び来訪し、言継と倉部らに「取向以下」を相傳したと記される。一度きりの儀礼的訪問ではなく、複数日にわたる伝授の動きが見える。

ただし「以下」に何が含まれるのか、参加者がどのような役割だったのかは記されていない。

一次史料
『言継卿記』永祿十三年五月廿六日条
史料記載
上泉武藏守來、予、倉部等取向以下之相傳了
現代語訳
上泉武藏守が来訪し、私(言継)と倉部らは取向以下の伝授を受けた。
読解
言継自身と倉部らを受け手とする、継続的な兵法伝授の記事と読める。
05

『歴名土代』

「上泉住・大胡武藏守・藤信綱」を結ぶ別史料

『歴名土代』は、永祿13年6月27日の四位叙位に関わる人物を「上野國上泉住、大胡武藏守 藤信綱」と記す。上泉という居所、大胡武藏守という呼称、信綱という実名が一つの項目に集まる。

これは『言継卿記』とは別の史料であり、日記に分かれて現れる名を一つの項目に結んでいる。

一次史料
『歴名土代』永祿十三年六月廿七日に関わる項目
史料記載
上野國上泉住、大胡武藏守 藤信綱
現代語訳
上野国上泉に住む、大胡武藏守、藤原氏の信綱と読める記載である。
読解
上泉・大胡武藏守・信綱を一人の項目に結ぶため、日記の複数表記を同一人物とみる有力な外部根拠になる。
06

永祿十三年六月

四位叙位と京都の人脈

『お湯殿の上の日記』6月17日条の「奉公の千秋」「中の御かと」「かめいつみ」、27日の『歴名土代』、28日の『言継卿記』は、異なる史料から宮廷周辺の動きを照らす。三つの史料を結びつけて読むのは、伊藤信吉の研究による整理である。

6月28日条は「上泉武藏守暫來談」と短時間の来訪を記す。続く「四品勅許忝之由申之」は前日の叙位と対応する可能性が高い。この一条には、「四品勅許」が天覧演武の褒賞であったとは記されていない。

一次史料
『お湯殿の上の日記』永祿十三年六月十七日条/『歴名土代』同月廿七日/『言継卿記』同月廿八日条
史料記載
上泉武藏守暫來談、四品勅許忝之由申之
現代語訳
上泉武藏守がしばらく来て話し、四品の勅許をかたじけなく思う旨を述べた。
読解
上泉の来訪が兵法の実演だけでなく談話としても継続し、宮廷的な話題に接していたことがうかがえる。
07

永祿十三年七月十九日

四辻・五辻と「調子之占」

7月19日には四辻黄門、五辻新藏人、大胡武藏守が来談し、二人が「武州」に調子の占を習ったと記される。「武州」は武藏守の略称と読むのが自然である。

5月23日の「調子占之一卷」と響き合い、宮廷人が学ぶ対象として調子之占が現れる。兵法との関係は記されていない。

一次史料
『言継卿記』永祿十三年七月十九日条
史料記載
四辻黄門、五辻新藏人、大胡武藏守等來談、兩人武州に調子之占被習之
現代語訳
四辻黄門、五辻新藏人、大胡武藏守らが来て話し、二人は武藏守から調子の占を習った。
読解
大胡武藏守は公家二人に知識を伝える立場であり、兵法以外も含みうる知的な交流圏が見える。
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禁裏周辺

千秋刑部少輔/千秋輝季

『御湯殿上日記』には「奉公の千秋」「中の御かと」「かめいつみ」という史料上の表記が見える。伊藤信吉はこれらを千秋輝季、中御門宣教、上泉信綱に関わる記載として読み、禁裏周辺の兵法活動を検討している。

史料は千秋を弟子とは記していない。禁裏周辺の兵法の場に、上泉とともに現れる人物である。

一次史料
『御湯殿上日記』の関連記事/伊藤信吉の研究
史料記載
奉公の千秋/中の御かと/かめいつみ
現代語訳
史料は、奉公する千秋、中御門、かめいつみという人物表記を残す。
読解
伊藤は千秋輝季・中御門宣教・上泉信綱への対応を提案し、宮中での兵法活動を論じる。
09

永祿十三年八月

千秋・大胡・鈴木 — 三人の兵法

8月10日、18日、19日の記事を並べると、千秋刑部少輔、大胡武藏守、鈴木が同じ活動圏にいたことが見える。19日条は三人を並べて「兵法有之」と記す。

  1. 梨門へ御暇乞に参、御盃被下之、御約束之小き錫杖被下之、次千秋刑部少輔、大胡武藏守参、へいはう被御覧了

    千秋刑部少輔と大胡武藏守が参り、兵法が見られた。

  2. 千秋刑部少輔、大胡武藏守、鈴木……等來……

    三者が同じ来訪記事に並ぶ。「……」は省略箇所である。

  3. 千秋、大胡、鈴木等兵法有之、各見物了

    千秋・大胡・鈴木の兵法があり、各々が見物したと記す。

一次史料
『言継卿記』永祿十三年八月十日・十八日・十九日条
史料記載
千秋、大胡、鈴木等兵法有之、各見物了
現代語訳
千秋、大胡、鈴木らの兵法があり、それぞれ見物した。
読解
反復する同席記事は、複数の実践者からなる京都の兵法ネットワークを示す。
10

『国賢卿記』

「鈴木」から「鈴木兵庫助」へ

清原国賢の『国賢卿記』は、元龜2年7月8日・10日条に「鈴木兵庫助」を記し、11日条では「上武・鈴木」が来訪して「兵法格位眞砂無刀迄」を遣わしたとする。伊藤は「上武」を上泉武藏守の略記と読む。

鈴木については関連史料から鈴木国隆との同定が検討されている。鈴木兵庫助と鈴木意伯を結ぶ史料は、現在のところ確認できていない。

  1. 鈴木兵庫助

    日記が鈴木を官途名まで含めて記す。

  2. 上武・鈴木來、兵法格位眞砂無刀迄遣了

    清原国賢の日記に「上武」と「鈴木」が来訪し、兵法の伝授に関わる語が並ぶ。

一次史料
清原国賢『国賢卿記』元龜二年七月八日・十日・十一日条/伊藤信吉の研究
史料記載
上武・鈴木來、兵法格位眞砂無刀迄遣了
現代語訳
上武と鈴木が来訪し、兵法の格位、眞砂、無刀までを授けた。
読解
『上武』を上泉武藏守、『鈴木』を兵庫助国隆とみれば、二人が共同する伝授の場面として読める。
11

日常の記録

酒、談話、愛洲の薬方

日記の上泉/大胡は、相傳だけでなく、来談、酒席、書写、依頼の中に現れる。後世の剣聖像より、都市の日常に入り込んだ専門家の姿に近い。

別の記事では、前年に渡した「愛洲藥方」が火事で焼けたため、大胡武藏守の求めに応じて再び書き与え、薬一包も渡したと記される。「愛洲藥方」の作者や処方内容は、この記述からは分からない。

一次史料
『言継卿記』愛洲薬方の記事
史料記載
大胡武藏守來、愛洲藥方去年遣之、火事燒之間又所望之由申之間書遣之、同藥一包遣之
現代語訳
大胡武藏守が来訪した。前年に渡した愛洲の薬方が火事で焼け、再び望んだので書いて渡し、同じ薬も一包渡した。
読解
兵法家をめぐる交流には、文書の保管・再交付や薬の知識も含まれた。
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元龜二年七月廿一日

結城方への紹介状

帰国を前にした人物は日記本文で「大胡武藏守」と呼ばれ、下野国結城方への書状を求める。続けて写された書状では「上泉武藏守」と呼ばれる。この一続きの文脈は、二つの名を同一人物とみる最も強い根拠である。

書状は上洛、公方以下への兵法相傳、「無比類發名」「同流一家」を記す。言継による第三者への紹介として重い。書状は「下野國結城方」と記すが、個人名は記していない。

国書刊行会版『言継卿記』第四の版面。元龜二年七月廿一日条の日記本文の「大胡武藏守」と結城方への書状中の「上泉武藏守」を同じ記事に含む。
元龜二年七月廿一日条。日記本文の「大胡武藏守」と、同じ記事に写された結城方への書状の「上泉武藏守」を含む連続した版面。元龜二年七月廿一日 · 『言継卿記』第四 · 国書刊行会 · 大正4年(1915) · 国立国会図書館デジタルコレクション · 史料画像を原寸で開く
画像の出典は国書刊行会版の国立国会図書館デジタルコレクション画像。権利者、利用条件、転載許諾は未確認であり、ライセンス、パブリックドメイン、転載許可を示すものではない。

日記の記事

大胡武藏守本國へ下向云々、暇乞に來……又下野國結城方へ書狀所望之間調遣之、如此

記事中に写された書状

仍上泉武藏守被上洛、公方以下悉兵法軍敗〔配カ〕被相傳、無比類發名之事候、又貴殿拙者同流一家之儀候間……

一次史料
『言継卿記』元龜二年七月廿一日条の日記本文と記事中の書状
史料記載
大胡武藏守本國へ下向云々、暇乞に來……又下野國結城方へ書狀所望之間調遣之、如此/仍上泉武藏守被上洛、公方以下悉兵法軍敗〔配カ〕被相傳、無比類發名之事候、又貴殿拙者同流一家之儀候間……
現代語訳
大胡武藏守は帰国前の暇乞いに来て結城方への書状を求めた。書状には、上泉武藏守が上洛したこと、公方以下に兵法・軍敗〔配カ〕が相傳されたこと、無比類發名、そして相手と言継の同流一家という関係が記される。
読解
同一記事の依頼者と紹介対象を結ぶため、大胡武藏守=上泉武藏守という文脈上の同定は極めて自然である。
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確認範囲

91頁に「新陰流」はあるか

今回確認した『言継卿記』91頁では、「陰流」「影流」「新陰流」「新影流」の確実な用例を確認できなかった。日記が直接支えるのは人物と兵法活動であり、流儀名までではない。

また、確認した上泉関係記事には「伊勢守」を見いだしていない。今回確認したのは91頁であり、『言継卿記』全体を対象とした結果ではない。

一次史料
本研究で確認した『言継卿記』91頁
史料記載
陰流・影流・新陰流・新影流の確実な用例は確認されなかった。
現代語訳
調査した範囲では、流儀を新陰流と名づける記述は見つかっていない。
読解
日記が直接伝えるのは同時代の人物と兵法活動である。流儀名としての「新陰流」は、後の時代の史料に現れる。

第二部

新陰流史・疋田伝から見る上泉武蔵守同時代史料の復元とは別の、後代の伝承・伝書・研究の層として読む。
II-00

A — 伝承系譜

伝承系譜上の位置

新陰流疋田伝に伝わる系譜では、上泉武蔵守は愛洲小七郎と疋田栖雲斎の間に位置しています。

福岡市博物館所蔵の系譜資料について、現在確認できている部分にも、愛洲移香、愛洲小七郎、上泉武蔵守、疋田栖雲斎の順に名が記されています。

この史料は「上泉武蔵守」と記し、同時代の日記は実名を含む「上泉武藏守信綱」を記す。サイト内の伝承系譜は、その後の人物へも続きます。

II-01

B / C — 史料と研究

上泉武蔵守と新陰流

上泉は新陰流の形成と伝承に関わる人物として、史料と研究の双方に現れる。手掛かりの一つが、伝統的に『燕飛序』と呼ばれる文書である。

研究文献は、上泉に帰される文言として「予究諸流奥源於陰流/別抽出奇妙号新陰流」を紹介する。この文言では、諸流を究めてその奥源を陰流に求め、そこから新たに「新陰流」と号したと語られている。

『燕飛序』の写本系統と成立事情は、現在のところ分かっていない。

II-02

A / C — 伝承と研究

陰流との関係

愛洲陰之流資料、『燕飛序』に関する研究、形名の比較は、陰流と上泉の新陰流との関係を検討する材料になる。

現存資料からは、陰流と上泉の新陰流との関係を示す手掛かりが確認できる。一方、上泉が誰から、いつ、どこで学んだのかを具体的に示す史料は、現在のところ確認できていない。

II-03

A / C — 伝承と研究

愛洲小七郎との関係

新陰流疋田伝の伝承系譜は、愛洲小七郎から上泉武蔵守へ続く順序を示します。

愛洲小七郎と「宗通」が同一人物であることを示す史料は、現在のところ確認できていない。また、上泉への伝授の時期・場所・内容も分かっていない。

II-04

A / C — 伝承と名称

疋田栖雲斎/疋田豊五郎との関係

新陰流疋田伝の伝承系譜では、上泉武蔵守の次に疋田栖雲斎が記されています。栖雲斎は疋田豊五郎の号であり、研究文献や他の資料では「疋田豊五郎」の名が用いられる場合があります。

各資料の表記はそのまま示すため、引用では「疋田栖雲斎」「疋田豊五郎」「疋田殿」が併存する。

II-05

B / C — 史料別の名称

史料に見える名称

同時代史料『言継卿記』の永禄十三年五月廿三日(1570)条は「上泉武藏守信綱」と明記します。これは、上泉本人の存命中に「信綱」が記録された例である。

これより後の疋田系伝承では、疋田豊五郎入道景兼に関係する慶長五年(1600)の新陰流伝書が、系譜中に「上泉武蔵守」「藤原信綱朝臣」と記します。上泉本人と同時代の記録ではありませんが、疋田系の比較的早い伝承記録でも「信綱」が用いられた例です。

一方、柳生宗矩から細川忠利へ伝えられた『兵法家伝書・活人剣』の寛永十四年(1637)奥書には「上泉武蔵守藤原秀綱」とあります。後続する「亡父柳生但馬守平宗厳」「的子柳生但馬守平宗矩(花押)」「寛永十四年丁丑五月吉日」「細川越中守殿 参」と一体の奥書に現れる。「秀綱」は柳生系の伝承記録に確認できる表記である。

同時代史料と初期の疋田系伝承は「信綱」を伝え、後の柳生系伝承には「秀綱」が現れる。両者の関係と、どちらの表記が先に生じたのかは、現在のところ分かっていない。

日本古武道協会の柳生新陰流紹介は、柳生家伝来資料として「印可状(上泉伊勢守自筆相伝書)」「新陰流 影目録 四巻(同右)」を挙げる。「自筆」という記述は同協会の資料紹介によるものである。

II-06

B / A / D — 史料・伝承・比較

技法伝承から見た研究課題

愛洲陰之流資料と疋田関係資料では、猿飛から浦波までの六項目が名称・順序とも一致する。愛洲陰之流側の配列はその後も続く。

『新陰流(疋田伝)の研究』に「疋田殿自筆書」として掲載される「新陰之流猿飛の目録」にも、同じ六本の名称と順序が示されている。この原資料の筆者と来歴は、現在のところ確認できていない。

現存する陰流伝書との詳細な比較は第一章で扱った。

II-07

C / D — 研究と比較

参学と三学

疋田伝では「参学」、他の新陰流系統では「三学」と伝わり、その構成する形名に相違がある。また、現在伝承される形にも違いが見られる。『新陰流(疋田伝)の研究』には「新陰之流参学の巻」が掲載されている。この問題は別項で検討する。

II-08

C — 研究・書誌

研究・書誌

軽米克尊『直心影流に関する研究』は、陰流の影響、『燕飛序』、異なる伝承、形名の比較を扱う研究である。宮本光輝・魚住孝至の調査報告と『新陰流(疋田伝)の研究』は、史料図版と翻刻を掲載する。

結

次章へ

同時代史料に現れる兵法家

『言継卿記』を追うと、大胡武藏守はまず言継の日常の訪問記録に現れ、やがて史料は上泉武藏守、上泉武藏守信綱という名を記す。そこには、取向・總捲などの相傳、酒席、書写、そして公家や兵法家たちとの往来が続いていた。

その周囲には、中御門、雲松軒、四辻、五辻、千秋、鈴木が現れ、8月の記事では「千秋、大胡、鈴木等兵法有之」と三人の名が並ぶ。さらに、大胡武藏守が火事で焼けた「愛洲藥方」を再び求めた記事も残る。

元龜2年、帰国を前にした記事では、日記本文の「大胡武藏守」と、同じ記事に写された紹介状の「上泉武藏守」が一続きの文脈で結ばれる。

では、この兵法は誰へ伝わったのか。今回確認した京都の上泉関係資料群には、疋田豊五郎と特定できる人物はまだ現れない。次章では視点を疋田自身へ移し、疋田に直接関係する史料からその足跡を追う。

典拠

一次史料・刊行本・研究

一次史料

  • 山科言継『言継卿記』第四国書刊行会、大正4年(1915)確認範囲:永祿13年5月23日条と元龜2年7月21日条の表示箇所を刊行本の版面複製で直接照合。原本、記事全文、頁・コマ番号、その他の抜粋、91頁全体の転写は未照合。
  • 『お湯殿の上の日記』千秋・上泉に関わる同時代記事。表記は史料の形を保持。本章の関連研究に掲げた伊藤信吉の論考確認範囲:二次文献に掲載された転写・引用を確認。原史料画像は未照合。個別論文・頁との対応は未登録。
  • 『歴名土代』「上野國上泉住、大胡武藏守 藤信綱」の記載。本章の関連研究に掲げた伊藤信吉の論考確認範囲:二次文献に掲載された転写・引用を確認。原史料画像は未照合。個別論文・頁との対応は未登録。
  • 清原国賢『国賢卿記』元龜2年7月の上武・鈴木・鈴木兵庫助に関わる記事。本章の関連研究に掲げた伊藤信吉の論考確認範囲:二次文献に掲載された転写・引用を確認。原史料画像は未照合。個別論文・頁との対応は未登録。

掲載画像は原本写真ではなく、国書刊行会版の版面複製である。

関連研究

編集方針

日付は旧暦の史料表記を保ち、西暦は年の対応のみを添えた。引用では異体字と判読留保を保持し、現代語訳と研究上の同定を別層に置いた。

国立国会図書館デジタルコレクション — 『言継卿記』第四

新陰流史・疋田伝の確認済み資料

各カードの確認範囲だけを示し、本文全体や原資料の確認を意味しない。

NDLデジタル資料の巻単位リンクを確認・該当頁/コマとの照合は未了

言継卿記 第四

著者
山科言継
参照形態
国書刊行会刊行書のデジタル画像
機関
国立国会図書館デジタルコレクション
書誌
国書刊行会刊行書

『言継卿記』という歴史日記を、国書刊行会刊行書の国立国会図書館デジタルコレクション画像で参照するための巻単位の記録。原本そのものを指すものではない。刊年・編者・該当頁・コマ番号・各抜粋との位置対応は未登録。

提供された確認済み抜粋を参照・底本との独立照合は未了

『言継卿記』提供抜粋

著者
山科言継
参照形態
今回の研究資料として提供された確認済み抜粋・記事概要

提供資料が確認済みとする抜粋を参照。「上泉武藏守信綱」の一条は永禄十三年五月廿三日と確認した。該当頁・コマ番号と他の各条の月日は未確定で、本サイトによる原本・校訂本との独立した照合は未了。引用の「藏」「總」「捲」「軍敗」等は提供形を保持し、省略符も残す。書状の文言は概略として提供されており、確定翻刻ではない。

提供された転写箇所を確認・原資料未確認

慶長五年 新陰流伝書(疋田豊五郎入道景兼関係)

本文上の人物
疋田豊五郎入道景兼
参照形態
提供された系譜記載の転写
目録上の年代
慶長5年(1600)

疋田豊五郎入道景兼に関係する新陰流伝書の系譜記載として、「上泉武蔵守」「藤原信綱朝臣」の二つの表記を確認。上泉本人と同時代の記録ではなく、疋田系伝承における比較的早い「信綱」の用例として扱う。原資料の所在・来歴・全本文は未確認。

提供された転写箇所を確認・原資料未確認

『兵法家伝書・活人剣』寛永十四年奥書

著者
柳生宗矩
本文上の人物
上泉武蔵守・柳生宗厳・柳生宗矩・細川忠利
参照形態
提供された柳生系伝本奥書の転写
目録上の年代
寛永14年5月(1637)

柳生宗矩から細川忠利へ伝えられた『活人剣』の奥書として、「上泉武蔵守藤原秀綱」に続き、「亡父柳生但馬守平宗厳」「的子柳生但馬守平宗矩(花押)」「寛永十四年丁丑五月吉日」「細川越中守殿 参」と記す転写を確認。「秀綱」が柳生系伝承記録に存在することは示すが、誤記・別名・改名のいずれかは決定しない。原資料の字形・来歴・異本は未確認。

登録資料・確認済み翻刻

新陰流形組絵図

所蔵館
福岡市博物館
確認範囲
「上泉武蔵守」の表記と四名の順序

福岡市博物館所蔵『新陰流形組絵図』の伝系部分に基づく確認です。

掲載する伝系部分と『眼勝』はいずれも同館所蔵資料の部分画像であり、巻子全体を示すものではありません。

公開目録情報を確認・詳細本文未確認

愛洲陰流伝書・新当流奥三ッ太刀

機関
東京国立博物館
目録上の年代
室町時代・16世紀写

公開目録上の名称・所蔵館・時代・写本年代を確認。資料の詳細内容は未確認。

研究論文中の引用箇所を確認・原典未確認

足利義昭期の武家訴訟における禁裏の役割と権威の実効性

機関
明治大学学術成果リポジトリ

研究論文が引用する『言継卿記』永禄12年(1569)正月15日条の「大胡武蔵守」を確認。日記原本・権威ある校訂本文は未確認。

機関による資料紹介を確認・独立鑑定ではない

柳生新陰流(流派紹介)

機関
日本古武道協会

柳生家伝来資料として「印可状(上泉伊勢守自筆相伝書)」「新陰流 影目録 四巻(同右)」を挙げる機関紹介を確認。独立した筆跡・真贋鑑定としては扱わない。

関連部分を確認・研究上の解釈

直心影流に関する研究

著者
軽米克尊
機関
筑波大学
目録上の年代
2014年
書誌
博士(体育科学)・甲第6993号

陰流と新陰流の関係、『燕飛序』、異なる伝承、形名比較に関する部分を研究上の解釈として参照。

掲載図版・関連記述を確認・原資料未確認

愛洲陰之流目録の調査報告―新陰流との関係及び『紀效新書』所載の『影流之目録』についての新知見―

著者
宮本光輝・魚住孝至

掲載された愛洲陰之流資料の図版・翻刻と「猿飛」に関する研究記述を確認。原資料の全体と来歴は別途確認を要する。

掲載図版・関連記述を確認・原資料未確認

新陰流(疋田伝)の研究

著者
赤羽根龍夫・赤羽根大介
機関
神奈川歯科大学
目録上の年代
2007年
書誌
『基礎科学論集』第25巻、1–118頁、DOI 10.18924/00000388

掲載された疋田関係資料と後代の伝承資料を確認。豊五郎の伝記については、1頁の天文4年頃・加賀生・父母・景兼の叙述と、10頁の三百五十石の叙述を画像で確認したが、該当頁には個別の一次史料注を確認できなかった。上野家人物同定では、11頁の『肥後武道史』参照系譜図、39頁のOCR誤読箇所、89頁の林家伝書活字翻刻を画像で確認し、研究図と掲載翻刻を分離した。原資料の来歴・筆者は独立に確認していない。年代・翻刻判断も未確認。

未確認事項

『言継卿記』の「上泉武藏守信綱」という明記、来訪・相伝の記事、言継が上洛を述べる書状は本稿で扱いました。国書刊行会刊行書第四における各抜粋の該当頁・NDLコマ番号、版面複製で直接照合していない各条の日付・文字・文脈、書状の確定本文、大胡武蔵守との同定を直接示す記事、上泉伊勢守・秀綱等の表記との対応は追加確認が必要です。確定的な生没年、出自、家族、仕官、移動の全体、官位、逸話、門人一覧は人物データに補っていません。

愛洲小七郎からの直接教授、疋田豊五郎への直接教授、伝授の日時・場所・内容、技法の不変性、『燕飛序』の写本史、「疋田殿自筆書」とされる資料の筆者・来歴も未確認です。

本文未確認・今後確認する史料

  1. 『言継卿記』永禄12年正月15日条原本または権威ある校訂本文
  2. 『言継卿記 第四』と今回の提供抜粋該当頁・コマ番号・月日・軍敗等の判読・書状全文と年次
  3. 大胡武蔵守の同定に関する研究・事典個別の書誌・該当箇所・同定の論拠と一次史料
  4. 『燕飛序』本文・写本系統・成立事情
  5. 柳生家伝来『新陰流 影目録』可能な範囲での直接確認
  6. 上泉の諱・受領名の変遷資料信綱・秀綱、武蔵守・伊勢守の使用時期と伝承経路
  7. 愛洲小七郎と上泉武蔵守の関係資料具体的な相伝関係
  8. 上泉と疋田豊五郎の関係資料具体的な相伝関係
  9. 猿飛・燕飛関係資料系統別翻刻・配列比較
  10. 参学・三学関係資料系統別翻刻・形名比較
  11. 「疋田殿自筆書」とされる資料来歴・筆者の独立確認
  12. 上泉の生涯に関する地域史料所在・本文・成立事情