人物記録

山本 篤

― 一生修行者

五ヶ所浦における新陰流の現代の伝承と、組織や権威から距離を置き「一生修行者」であり続けた山本篤先生の姿を記す。

五ヶ所の屋外で、普段着姿で得物を手に立つ山本篤先生
五ヶ所で稽古する山本篤先生。普段着のまま、屋外で稽古することも多かった。

読み方

記録の層を区別する

資料に基づく歴史
公開資料と提供資料に基づく地域史・伝承史。
筆者の証言
2011年から2019年、年1〜2回程度の直接経験。
同時代のメモ
稽古当時に書き留めた記録からの限定的な抜粋。
筆者の解釈
後年の振り返りであり、山本先生自身の主張ではないもの。

01 — 人物記録

山本 篤 ― 一生修行者

山本篤先生は、熊本に伝えられてきた新陰流を相川学先生、志岐太一郎先生に学び、三重県五ヶ所浦においてその伝承に携わった人物である。

2021年2月23日、90歳で逝去した。

先生は自ら道場を構えることも、会を主宰することもなかった。

新陰流を自らの組織として広げるのではなく、習いたい者が訪ねてくれば教え、自分が受け継いだものを後世へ伝える。そのような自然な姿勢を最後まで続けた人だった。

そして、自らについては、

一生修行者

と語っていた。

02 — 資料に基づく歴史

愛洲氏の故地・五ヶ所浦

三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦は、陰流の流祖・愛洲移香の出身地と考えられる愛洲氏ゆかりの地である。

五ヶ所浦における愛洲氏の顕彰活動は、戦前にまで遡る。

「愛洲移香斎顕彰会趣意書」によれば、昭和9年(1934)、郷土の橋川大観、中村佐助ら有志が、御木本幸吉の後援を得て「愛洲顕彰会」を結成した。

神宮皇學館、神宮司庁、神宮文庫などから研究者を迎え、五箇所城址をはじめとする愛洲氏関係史跡の調査と、各地に残る資料の収集が進められたという。

昭和10年(1935)には大西源一『南朝の砥柱』が刊行された。同書では愛洲氏一族の中に、陰流の流祖・愛洲移香がいること、その史料や後裔についても取り上げられた。

翌昭和11年(1936)には五箇所城址を整備して「愛洲公顕彰碑」が建立され、昭和13年(1938)には三重県から史蹟の指定を受けた。

こうして五ヶ所浦では、戦前から愛洲氏と愛洲移香をめぐる調査と顕彰が続けられていた。

03 — 資料に基づく歴史

中世古祥道と愛洲氏研究

戦後になると、五ヶ所における愛洲氏・愛洲移香の研究は、中世古祥道らによってさらに進められた。

中世古は長年にわたって愛洲氏関係の史資料を調査し、昭和50年(1975)には『伊勢愛洲氏の研究』を刊行した。

その後も『愛洲移香斎久忠傳考』をはじめとする愛洲氏・愛洲移香に関する研究を続け、上泉信綱についても『上泉武蔵守信綱傳私考』を著している。

三重県立図書館が愛洲移香を取り上げた地域資料展示でも、中世古による一連の著作が関連資料として紹介されている。

戦前から続く地元の顕彰活動と、こうした戦後の史料研究。

その積み重ねの先に、五ヶ所浦と新陰流との新たな接点が生まれることになる。

04 — 資料に基づく伝承史

新陰流が五ヶ所浦へ

昭和55年(1980)春、桂清吉氏が熊本で新陰流が伝承されていることを知り、相川学先生に五ヶ所浦での演武を依頼した。

このとき、京都大原に在住していた志岐太一郎先生もともに演武を行った。志岐先生は野田派二天一流十六代でもあり、相川先生とは兄弟弟子の関係にあった。

その後、相川先生は五ヶ所浦の人々に新陰流の形を指導するようになり、これが肥後・新陰流三重支部へとつながっていった。

山本篤先生が相川先生と志岐先生の両師から新陰流を学ぶようになったのも、この時期である。

山本先生は、その後両先生が亡くなるまで教えを受けた。

愛洲移香に始まる陰流から上泉へ、さらに疋田へと伝えられたとされる兵法の系統は、やがて熊本に伝承された。

その新陰流が昭和55年(1980)、愛洲氏ゆかりの五ヶ所浦へ伝えられることになった。

若き日の山本篤先生と相川学先生を含む集合写真
若き日の山本篤先生(後列左)と、師の相川学先生(前列右)。撮影年代・場所は現在調査中。

05 — 資料に基づく地域史

愛洲氏顕彰・剣祖祭

戦前以来の愛洲氏顕彰と、戦後の研究・演武活動を背景として、五ヶ所浦では愛洲氏と愛洲移香を顕彰する「愛洲氏顕彰・剣祖祭」が開催されてきた。

愛洲氏顕彰碑の前では、愛洲移香にゆかりを持つ各地の剣術・居合等の流派による奉納演武が行われ、肥後・新陰流も参加してきた。

山本先生も、この五ヶ所浦で新陰流を伝えていった。

屋外で刀を手に並ぶ剣術演武の参加者

06 — 筆者の証言

宮大工、そして一生修行者

山本先生は、宮大工を生業としていた。

武術についても「完成した先生」として振る舞うのではなく、自らを「一生修行者」としていた。

90歳で亡くなる直前まで稽古を続けていた。

人柄は非常に穏やかで優しく、筆者は先生から指導を受けるなかで、怒られた記憶がない。

一方で、寡黙で近寄りがたい「昔ながらの武術家」という人物でもなかった。

先生は意外なほど話好きで、冗談もよく言った。

その気さくさもまた、山本先生という人をよく表していたように思う。

屋外で稽古する山本篤先生と参加者
屋外での稽古風景。山本先生との稽古は、会話の中から自然に始まることも多かった。

07 — 筆者の証言

道場を持たない先生

山本先生は、自らの道場や会を主宰していなかった。

新陰流を自らの組織として広げたり、門人を集めたりするのではなく、習いたい者が訪ねてくれば教える。

そこには、組織を大きくしようとか、自らの名前を残そうという雰囲気はなかった。

筆者が五ヶ所を訪ねたときも、いきなり整列して稽古が始まるようなことはなかった。

まず先生と雑談をする。

近況やさまざまな話をし、ときには冗談を交えながら過ごす。そのうち自然に新陰流の話になり、そのまま得物を手にして稽古が始まる。

そんなことが多かった。

稽古の際も、先生はほとんどの場合、稽古着ではなく普段着だった。

屋外では裸足になることも多かったが、砂利など足場に危険がある場所では履物を履いた。

特別な道場も、特別な装束もない。

日常の中から自然に稽古が始まる。

筆者自身も現在、新陰流を稽古するときは多くの場合、私服である。

そうしようと特に決めた記憶はない。

五ヶ所の屋外で稽古する山本篤先生
五ヶ所での稽古風景。場所や足場に応じ、普段着のまま稽古することも多かった。

08 — 同時代のメモと筆者の解釈

「工夫し、検証する」

山本先生の教えをよく表している言葉がある。

2015年11月26日、筆者が先生から新陰流を指導することについて許可を受けた際のメモに、次の言葉を残している。

新陰流はキリスト教じゃなくて仏教だから、型覚えに書いてない部分や分からない部分、疑問に思う部分は工夫や検証をする。

一見すると、山本先生らしい冗談めいた言い回しでもある。

しかし、その日のほかの指導と合わせて見ると、これは先生の新陰流に対する考え方をよく表した言葉だったように思う。

先生は、伝えられた形をただ暗記し、書かれたことを絶対的な教義として受け入れるようには教えなかった。

分からないことがあれば考える。

疑問があれば試す。

そして実際に検証する。

形についても「こうでなければならない」と一つの答えを押しつけるのではなく、複数の可能性を示すことがあった。

実際に形の一部について疑問を示し、

東京で検証してみて

と筆者に課題を託したこともあった。

先生自身も疑問を疑問のまま認め、それを門人にも考え、検証するよう求めていた。

これは、伝えられた形を自由に変更してよいという意味ではない。

伝えられたものを手掛かりとしながら、その意味を自ら考え、身体を通して確かめていく。

その姿勢こそが、山本先生のいう「修行」だったのではないかと筆者は考えている。

そしてそれは、先生自身が最後まで「一生修行者」であろうとしたこととも重なって見える。

09 — 筆者の証言

筆者と山本先生

筆者は2011年から2019年まで、毎年おおむね1〜2回、五ヶ所を訪れた。

愛洲氏顕彰・剣祖祭への参加だけでなく、個人的に山本先生を訪ね、新陰流の指導を受ける機会もあった。

すべての稽古について詳細な記録を残していたわけではない。

現在残っている具体的な指導メモは一部に限られるが、この期間に撮影した写真や動画が残っている。

2015年11月26日には、山本先生から新陰流を指導することについて許可を受けた。

2019年11月25日にも五ヶ所を訪れ、先生から直接指導を受けた。

翌2020年、新型コロナウイルス感染症の流行によって五ヶ所を訪れることができなくなった。

そしてコロナ禍のさなかの2021年、山本先生は入院し、2月23日に90歳で逝去した。

結果として、2019年の稽古が筆者にとって先生から直接教えを受ける最後の機会となった。

五ヶ所で筆者を指導する山本篤先生
五ヶ所で山本先生から指導を受ける筆者。2011年から2019年まで、愛洲氏顕彰・剣祖祭への参加や個人的な訪問を通じて直接教えを受けた。
五ヶ所で山本篤先生を囲んだ稽古後の集合写真
五ヶ所での稽古を終えて、山本先生を囲んで。

10 — 同時代のメモ

稽古メモからの抜粋

筆者の手元には、山本先生から直接指導を受けた際のメモが一部残されている。

以下では、そのすべてを公開するのではなく、先生の指導の特徴を伝えるものを一部抜粋して掲載する。

これらは後年の記憶によって補ったものではなく、指導を受けた当時に書き留めた記録である。

2015年11月26日

猿飛
小手を押さえるときは回刀じゃなくても良い
三学
松風は担がないで横向きでも良い
八組
波動は下からの方が良いかも
この日のメモ
新陰流はキリスト教じゃなくて仏教だから、型覚えに書いてない部分や分からない部分、疑問に思う部分は工夫や検証をする。

2019年11月25日 五ヶ所

猿飛
猿飛 最初は小さく。
三学
軽く打つ。触れる感じ。
八組
中和 斜めに止める。鍔で。
位詰
肘から先に動かす。
中極意
乱勝 くねり。

これらの短い言葉だけでは、その場で行われた指導のすべてを再現することはできない。

しかし、後から整えられた解説ではなく、その場で先生の動きと言葉を受けながら筆者が書き留めた記録である。

その意味で、山本先生が実際にどのように新陰流を教えていたのか、その一端を伝える記録としてここに残しておきたい。

11 — 筆者の回想と解釈

新陰流を後世へ

山本先生は、自らの名を冠した道場を残さなかった。

大きな組織も作らなかった。

自らの伝承を誇ることもなかった。

宮大工として生活し、普段着で稽古をし、訪ねてきた者と話をし、必要になれば得物を取って教えた。

そして自らも最後まで「一生修行者」だった。

後世から振り返れば、道場や組織を構えるのではなく、習いたい者に兵法を伝えていったその姿に、上泉や疋田ら、かつて兵法を携えて各地の人々に教えた者たちを思わせるところがある。

もちろん、これは筆者が山本先生を振り返って感じる印象であり、先生自身がそのように自らを位置づけていたわけではない。

むしろ、そうした歴史的な意味を自分の功績として語ることとは、最後まで無縁の人だった。

愛洲移香ゆかりの五ヶ所浦へ、新陰流が長い年月を経て伝えられた。

その伝承の中にありながら、山本篤先生は自らを「伝承者」として飾ることなく、ただ一人の修行者として稽古を続けた。

そして、習いたい者には惜しまず教えた。

新陰流を後世へ伝える。

山本先生にとって、それは特別な事業ではなく、日々の稽古そのものだったのかもしれない。

屋外で得物を手に立つ人物と、隣に掲げられた幕

典拠

典拠・参考文献

地域史・伝承史に関する記述では、公開資料と提供資料を参照した。筆者の直接経験と稽古メモは、それらの資料に基づく歴史記述とは区別している。

  1. 三重県立図書館剣法の祖・影流の元祖 謎多き剣豪 愛洲移香斎久忠
  2. 肥後・新陰流東京稽古会三重に伝わった経緯
  3. 肥後・新陰流東京稽古会愛洲氏顕彰祭・剣祖祭
  4. 提供資料愛洲移香斎顕彰会趣意書